中産階級ぶたくんを舐めるな

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明けの中産階級ぶたくんを舐めるなのレビュー・感想・評価

2.5
【二次創作を上回るものは何一つとしてない、史上最も堕落した瞬間オーガズム映像】

・はじめに
知らない人初心者の為の予習といったビギナー向けばかりが世に蔓延るのもどうかと思ったので、それなりに見ている、にわか以上マニア未満といった中級者向けの総括として、最新にして最後のスターウォーズセレブレーションを特別版世代(こまっしゃくれた二十代)なりに盛り上げたいと思います。(自分の中のスターウォーズ呪詛を供養するためにも)

・ここまでのスターウォーズ(~2012)
スターウォーズシリーズは一貫してバランスをとる続編をつくってきた。
これは劇中にある通り「ライトサイドとダークサイドのフォース」の均衡を保つことを意味し、概して単純な善悪二元論に決着をつけるためだった。
これは「リングセオリー(サーガをめぐる円環構造)」としてファンの間で広く知られている構造だ。(例:Ⅰのクワイガンの火葬とⅥのアナキンの火葬、一作目で師匠が死ぬ、原住民が抵抗運動に加戦など挙げたらきりがない。)
このような繰り返しをルーカスの言葉では「現実に戦争は太古の昔から今にかけて繰り返されている、その時代によって姿形を変えながら」というもっともな言い訳がつく。フォースをめぐる禅問答のような対立の繰り返しは商業的に永遠の続編をもたらす。。。はずだった。

ベトナム戦争・カウンターカルチャーを経た70年代末東洋思想(ジャイナ教)とスピリチュアル(超自然現象)を加味した20世紀を代表する大衆娯楽映画はアメリカ出身の白人によって創造された。三大宗教を凌ぐ信者数を誇るこのフランチャイズは開祖であるジョージルーカスにすべてを還元して語られがちだ。古典神話の構造を引用しテンプル騎士団、第二次世界大戦、米英戦争、といったアメリカヨーロッパを中心とした事象、合理主義、全体主義といった社会構造を反映。楽しいエンターテイメントへ昇華させた。
語り口は交錯する群像劇を踏まえ狂言回しを設置し、非常にスピーディであった。(これはジョージルーカスもといヒッピー文化と共存するアメリカのモンスタートラック信仰、スピード偏狂に起因するということはここでは割愛する)
劇伴を担当したジョンウィリアムズの音楽には明確なテーマ性が与えられ、雄大な宇宙の奥行きを感じさせた。(冒頭スターデス
トロイヤーからの追跡を逃れようとするブロッケードランナーのシーンが手前から奥、奥から手前へと運動方向に奥行きを感じさせたように)
ベンバートの音響設計もだ。独特なジャワ族の雄叫び、ライトセーバーの音、ベイダーの呼吸音と、挙げたらきりがないが、大道具などの美術がウェザリングによって生活感を醸し出したのと同様に、生活の中に存在する“作業音“が映画にこの上ないリアリティを与えていた。
閑話休題。しかしこの遥か銀河遠くの物語は、田舎育ちの青年ルークスカイウォーカーの英雄譚を背骨にすることで、7歳から70歳まで楽しめるトリロジーとなった。父と子にまつわる大河ドラマはスターウォーズユニバースを理解し易くするのとして機能している。(反面、選ばれし者たちだけによる内輪の話として現代的な群像劇の価値観に相反すると批判されがちだ。しかしスターウォーズにおける人物の配置は記号または象徴でしかないと筆者は考えているため、スカイウォーカー家という屋号は世界をつかさどる神ではなく、世界を俯瞰するための指標でしかないとされる。よって当方スターウォーズシリーズに推しキャラはいない。)

・みんなのディズニー映画へ
二作目『帝国の逆襲』製作時の構想で9部作であることが開祖ルーカスから明かされた。
選ばれし者アナキンスカイウォーカーが悪に堕ちるプリクエル(1~3)
正統な物語・息子ルークが父を救い英雄となるオリジナル(4~6)
そしてシークエルへと繋がる。ルークが皇帝を倒し銀河に安寧をもたらした三作目は「一時的な勝利」となり、敵組織である銀河帝国はファーストオーダーへ。最終兵器デススターはスターキラーへと大きな敵と戦う話へ広がっていった。がこれは物語がより壮大になったわけではなく、物理的な問題であった。
前よりデカイ!
結局のところシークエルの重心はここに置かれた。
映像技術そして映画産業の在り方すら変えたスターウォーズ。ILMやTHXといった会社を設立。ルーカスフィルムがプロデュースする映画としてビジネスに左右されない巨大なインディーズ体制を確立したルーカス自身、帝国になり果てたと揶揄されることもあった。ディズニーの買収がなければ我々は今頃『シスの復讐in3D』を観ていたころだろう。
しかし現在、ディズニーによる9作目はルーカスの遺伝子を培養したうえで継承を試みている。

・ノスタルジアは持続しなかった。
ルーカスの後任となったキャスリーンケネディ。『E.T.』をはじめとしたスピルバーグ作品やロバートゼメキス作品の製作総指揮を務めた、現在ディズニー傘下の製作体制にて“非常時大権”を与えられた人物である。
買収以降様々なプロジェクトが続々と始動した。クローンウォーズの続編、Ⅳとプリクエルを繋ぐ『反乱者たち』シークエル三部作、ハンソロやオビワンのスピンオフ映画。MCUに続けとばかりにカノンの横軸を増やしていった。そのどれもが「ファンを大事に」と前置きをした上で、挑戦を強調していった。具体的な挑戦の問題は後述するとして、枕詞に置かれた「ファン」とは、恐らく一番の太客である現在40代後半~50代の層を指す。(ハンソロが後から撃つと激昂し、Nooo!を言うの言わないので一晩討論する世代である。)
俗に言う「接待演出」というやつで、製作側は「我々はあなた方のことわかって作っていますよ」という小ネタを随所に仕掛け、ノスタルジアをくすぐるのに機能する。周知の通り、これは彼方立てれば此方が立たぬで新しい挑戦にとって最大の障害である。「ルーカスが離れてから変わった。こんなのスターウォーズじゃない。」と批判されることを何よりも恐れた結果だ。そういったマーケティングの結果、新世代も楽しめ古参も満足という針の穴を通すような難題を見事に解決した『フォースの覚醒』であった。

・現実社会を反映したお伽話
予告された劇場映画の3作中2作は女性主人公であった(レイとジンアーソ)。もはや口にするのも憚れるポリティカリーコレクトネスだが、ハリウッドを代表する映画として不可欠な措置を取った。彼女たちは現代的価値観の要請により(スレイブガールのような)性的な要素に左右されないフェミニズムの象徴に祭り上げられた。(例:レイの上裸カイロレンへの反応、豪快に搾乳するルークへの視線、彼氏いるの質問)
これは自戒を込めつつだが、潜在的に男らしさよりも女らしさの方が印象的に表現されていることにあまり違和感を抱いてこなかった。そういった世相を踏まえ、女性としての魅力を兼ね備え、独立した人物を中心におくのは至極真当だ。が、プロダクションはポリコレを目的化し過ぎた。敏感に反応したのだ。続く『最後のジェダイ』では人種の多様性を重視し、アジア系のローズティコをフィンと共に活躍する仲間に。こういったポリコレ配慮は、かえって観客のそして製作側の差別意識を猛烈に感じさせるものとなった。大事にするはずのファンの信頼を失い、オワコンコンテンツとなった原因の一つだ。

・『スカイウォーカーの夜明け』は失ったものを取り戻す最終回になったのか
セオリーに従って考えていたため、三度目のトリロジーを締めくくる最後の大団円として前8作を総括する物語を期待していた。が、監督を務めたのはあのJJAbramsだ。同氏はリブート版スタートレックにて、巧みな導入を描きリブートの風呂敷を広げる係として高い評価を受けた。だが今回要求されるのはその風呂敷を畳む(回りくどいのは嫌いなのでハッキリ書くが、前任の馬鹿どもの尻拭いだ。)皮肉なことに世間では「酷くても8よりマシ。ダメでもともと」というこの上ないハードル下げがなされた。もうこっちのものだ。7同様のアプローチ、旧ファンへの目配せをしながら、同じ展開を繰り返す。いつものスターウォーズをみせるという堕落した共犯関係を結べばいい。では新しい挑戦の方はどう対処するのか、この課題には語頭に一言添えるだけで済んだ。「映画作品の中では~」である。つまりゲーム、コミック、小説などのスピンオフ、レジェンズの設定を輸入すれば“実写作品上”は新しい挑戦となりうる。7製作発表時に「スピンオフ、レジェンズは排している」と堂々とホラを吹いた通り、三度目の正直ならぬ、二度あった三作目(ⅢとⅥ)は三度ある、だ。

と、かなり長々前置きをしたうえで今回の映画です。スコアからお察しの通りなので、好きな方は不愉快に感じる恐れがあります。
①炎上商法の鎮火
今作の最大の目的は信者を連れ戻すことなので、やはり中心に置かれたのはクリシェです。7が4と5の繰り返しの構成だったのに対し、今回は4と5と6の繰り返しをもう一度繰り返すというサービスの薄利多売。史上最も忙しない猛スピード(カットに次ぐカット)で話は進みます。(スターデストロイヤー無限コピペ!往年のパイロットサプライズ登場!クソみてぇなCGの回想と接待に次ぐ接待は単純な物量の増しまし。)
予想外だったのはファンの予想全てが予想通りの展開だったことです。よくジャンプ読者にスターウォーズを説明する際に「アメリカのNARUTO」と説明しているんですが、そっくりそのままでしたね。そのくせ、衝撃の展開でございとばかりに不必要に盛り上げる演出!音楽!呆れすぎて笑いが出ました。
ただ今回は再接待が目的なのでファンの予想の範疇であることが、マーケティング的に正しいとされたんでしょうね。前回が前回でしたから。

➁歪に繋げられた円環構造
円環構造でサーガを締めくくるのは必然だと思っている身からしたら、今回のプリクエルを徹底的に排除したラストには反吐が出ました。戦う相手に困ったので黒幕シディアス頼りの9作目にしたくせにプレイガスやサイフォディアス、カミーノ、ミディクロリアンといった要素を無視(なかったことに)し、9部作でつながるという構想自体をぶちこわしてその結果ほぼⅣ~Ⅵの3作のみに呼応する続三部作になりました。ようは現代的価値観でオリジナルトリロジーをアップデート→失敗したというわけです。
トランプ政権後の映画でございとのたまうメッセージ性。スカイウォーカーを血統至上主義と相反して継承する結末。低俗な仕上がりでしたが、それでも謝罪回りをするかのようなJJのパッチワーク作業には労いの言葉をかけたいほど、観ていて不憫でした

③良かった点
前作をある程度尊重していたのは良かったです。やっぱりなかったことにはできないのでカットの切り替えしによるフォースチャットや物質を伴うやりとりなど一部の野蛮な演出はちゃんと受け継がれていました。(やっぱカジノ要らなかったな)

・おわりに
映画って俺より頭いい人が知恵絞って作ってんじゃないの?
商業主義の奴隷から搾取しつづけるのでしょう。そんなものを面白いと思えてしまう惨めな人生を送らないように気を付けたいと思います。さようなら、動くな、死ね、蘇ったらもう一回殺す。