中産階級ぶたくんを舐めるな

ブライトバーン/恐怖の拡散者の中産階級ぶたくんを舐めるなのレビュー・感想・評価

3.9
【酒鬼薔薇聖斗がスーパーマンだったら】

ユニバース化や続編希望という声がありましたが、僕は反対です。その後を匂わすラストでしたが、別に続きは見たくない。というのは、やはりこれもよくできた「もしもシリーズ」のひとつでしかないから。本家DCcomicsでいうところの『elseworldシリーズ』にありそうな「もしスーパーマンが反抗期に快楽殺人に目覚めてしまったら?」という話。
よってこの映画を観る前提にスーパーマンが何かを知っておく必要があります。

ここからはスティーブンスケルトンの著書『世界最強のスーパーヒーローから解読する福音書』を代表とした、スーパーマンを旧約聖書に根差したキリスト教信者(もっと言えば、イエスキリストの生まれ変わりそのもの)として読み取る説を引用していきます。
そもそもスーパーマンの原作者ジェリーシーゲル、ジョーシャスターはユダヤ人である。着想は幻想に近い自己実現の欲求が現れたものだ。筋骨隆々として青い瞳に黒い髪、真実と正義をアメリカンウェイでもって貫く、男性の理想像である。
ユダヤにおいて神を意味する“エル”家の一人っ子であり、赤ん坊の時に崩壊する惑星から脱出(これは創世記)異なる文化の中で育っていく様は出エジプト記におけるモーセだ。その後地球でヒーローとして活躍し、強敵ドゥームズデイとの激闘の末死亡。その後蘇る。これは言うまでもなくキリストだ。
今作のブランドンとスーパーマンの脱出ポッドが落下したのは同じくカンサス州、かつてローマカトリック(とくにバプティスト派メソディスト派)が開拓した地である。しかしこの地はバイブルベルトではなく、グレインベルト(穀物地帯)だ。アメリカの単純素朴で保守的な価値観が根付いている。スーパーマンの精神性はこの地で育まれた。反対に今作のブランドンは「僕は、こんな田舎者どもとは違う。特別なんだ。」と言い放つ。信仰心、純粋な善悪の判断が歪んでいることが土地に対する思いから読み取れる。
しかしスーパーヒーローがいかに宗教色の強いものかはさほど重要な要素ではない。作者は元来作品の深読みを嫌う。背景にユダヤ教や聖書が存在しようがしまいが、読者へ届けたい理念・テーマは単純で普遍的だ。
それは、いつ・どこで・何があっても「正しくある」という信条だ。ここに宗教が介在することはない。そしてその超人的なパワーは「心霊や倫理において宗教に左右されることはない」と、DCcomicsエグゼクティブプロデューサー、ジェフ・ジョーンズは語る。よって無神論者、不可知論者であってもスーパーマンを自らの信条に反することなく愛読できるのだ。
キングダム・カムなどで描かれた「何度も何度も人間に、社会に絶望しても、正しいことは何かを悩み・希望を諦めないそしてその力を人々に鼓舞させる。人類を天上から救済するのではなく、人類とともに歩む」それがスーパーマンをはじめとしたスーパーヒーローの絶対的な存在意義である。事程左様に出自こそユダヤ的であっても国家・民族・宗教を超えてこれほど全世界で広く愛されているのには、普遍的な正しさがその時代に寄り添っているからである。

確かにこういった絶対的な善というキャラクターを現代的なドラマとして成立させづらいのは間違いない。だからリブート作の『マンオブスティール』の相対化、『The Boys』のホームランダーや今作のようなパロディが主流化しているのは理解できる。(このパロディ二つは同年公開なので食傷気味に感じる)
こういったスーパーマンへの多角的な視点はスーパーマン批評として鋭く目を見張るものはある。例えばエディプスコンプレックス、つまりスーパーマンがいかにマザコンであるかだ。今作と『The Boys』では母性への異常な固執を明るみにする。
スーパーマンは一見ファザコンに見える。孤独の要塞では亡き実父のホログラムに泣きつき、言われるがままスーパーマンとしてのアイデンティティを授かる。また地球での育ての親トーマスからはアメリカの精神、社会でのクラークケントとしての立ち振る舞いを学ぶ。2人の父親の理念を受け継ぐ…しかしこれは話題が前後するが、キリスト教的な三位一体に由来するところだ。父親は転じて自分自身である。つまり自分と父親とを重ねることは母親(父親の妻)への想いを重ねることと同じ意味を持つ。
前述の二作品は、この現代のモラルでは恐怖すら覚える母親への屈折した思いを母親側の目線で描く。これこそが続編が不要な理由だ。これは凶悪なスーパーマンの誕生譚ではなく、成長の過程で息子が得体のしれないものへ変貌していく恐怖を母親の視点で描いたホラー映画なのだ。結末の通り、母親と息子の関係は悲惨な結末を迎える。民は天から見放されるのだ。
最後に不満点を。
今作は意欲的で興味深いテーマを取り扱いながら、異なる2本の線路を途中で曖昧につなげてしまっている。ブランドンの変貌と母親の心情変化だ。
冒頭で書いた通り快楽殺人、ネクロフィリアに目覚める我が子を認められない母親の苦痛は丁寧に描かれていた。同時に事のすべてを理解できない不透明さが一貫してあった。これは終盤に狂気じみた殺人計画ノートを発見してしまったショックを引き立てる演出に一役買っているのだが、性善説的なスーパーマンと相対化するにあたり、本来何故この映画のブランドンは歪んでしまったのかという原因を明確にする必要があった。
民族差別だという語弊を恐れず邪推すると、ブランドンの母星の意味するところはユダヤの故郷で、彼は故郷をTAKEする(奪い返す) 為に遣わされたのかもしれない。
「いやそれはブランドンの母星はクリプトンじゃなくて邪悪な怪獣墓場だからだよ」という性悪説をゴリ押しされたら、ぐうの音も出ないのだが。