茶一郎

シャザム!の茶一郎のレビュー・感想・評価

シャザム!(2019年製作の映画)
3.9
 あんなに顔をしかめて正義について悩んでいたスーパーマンも子どもが見れば、お酒が買えて、ストリップに行けるちょっとイケてる大人に過ぎないのである。
 魔法により「シャザム!」と叫ぶだけで、スーパーヒーローになる事ができる能力を得た少年のヒーローとしてのオリジン。教室に襲撃してきたテロリストを俺一人が撃退するみたいなよくある子供の妄想を、全力で映画化したのが本作『シャザム!』です。

 動画でのレビューはこちらです https://www.youtube.com/watch?v=U6AMvGQdfok

 この『シャザム!』が徹底的に偉かったのは、作品内の世界観、ヒーロー観を全て子供の視点から描いた事にあるように思います。
 母親とはぐれ家出を繰り返す孤児の主人公ビリーは、ある日、ビリーと同じく孤児の子供が5人住むグループホームに住む事になりました。本作『シャザム!』の物語は、ビリーとそのグループホームの孤児仲間5人が魔法の世界に導かれる、『グーニーズ』的なジュブナイルモノを軸に進んでいきます。本作の共同脚本に、ジュブナイルモノの佳作(ロボット版『E.T.』×『グーニーズ』)だった『アース・トゥ・エコー』の脚本家ヘイリー・ガイデンが抜擢されているあたり、やはり製作の段階からこの『シャザム!』をジュブナイルモノとして推していく意図が見受けられます。

 ジュブナイルモノに続き、日常にモンスターの恐怖が訪れるちょっと怖いホラー展開は、そのモンスターの造形も相あまり『ゴーストバスターズ』(1984)を連想しました。(七つの大罪がズールとビンツに似ていませんか?)またバスのガラスが割れるサスペンスは、『ジュラシック・パーク ロストワールド』からの引用です。
 何より、最も魅力的な設定である「子供が大人になる」は『ビッグ』であり、大きな鍵盤を登場させ目配せをしていました。

 主人公ビリーが魔法の世界に導かれてからは、その「子供が大人になる」という設定を活かしたギャグが続きますが、ここで驚くのはビリーが魔法で変身できるようになったヒーロー=シャザムの設定が子供の視点から形成されていく事です。
 魔法によりシャザムになるビリーは、まず自分のスーパーパワーが分からないという壁にぶつかります。そこでビリーを助けるのは、グループ・ホームのフレディです。フレディはアクアマンのTシャツを着たり、スーパーマンが弾いた銃弾をコレクトしていたりするスーパーヒーローのオタクでした。フレディはシャザムの能力が何なのか、一つ一つ、フレディが知っているスーパーヒーローの知識を基に実験していくのです。

 ここにおいて『シャザム!』はジュブナイルという子供の物語である以上に、子供の視点からスーパーヒーロー(スーパーマン)が脱構築されていく過程を描いていきます。
 言うまでもなく、元々荒唐無稽なものであるヒーロー映画は、いつしかティム・バートン版『バットマン』シリーズ、クリストファー・ノーラン版『バットマン』シリーズ』、そして直近のザック・スナイダーによる一連のDC・エクステンデット・ユニバース前半により、大人が哲学や社会問題、宗教についてのあれこれを反映させ大人が見て、あーだこーだ言うジャンルになってしまっていました。もちろんそれを脱却しようとしたのが『アイアンマン』であり、その後に続くMCU書作品であることは周知の通りですが、そうは言ってもやはりヒーロー映画は「大人『が』楽しめる」映画だったように思います。
 そこで、もう一度、本作『シャザム!』は、子供の視点から、子供が活躍する子供による子供のヒーロー映画を作ろうではないかという試みだったように感じます。劇中、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』を人形で再現する子供が登場しますが、まさにこの『シャザム!』自体が人形で遊ぶ子供の視点から作られたヒーロー像、世界で出来上がります。

 そんな「子供『こそ』楽しめる」映画に仕上がった抜群のファミリー・ムービーである『シャザム!』、「家族」についての映画という意味でのファミリー・ムービーでもあります。母親とはぐれ家族を信じられなくなったビリーは、同じく家族に見捨てられ家族を信じられなくなった、ビリーの鏡写りである悪役ドクター・シヴァナと対峙します。
 そしてビリーは、グループ・ホームという新しい家族、疑似家族を守るためにスーパーパワーを使い、疑似家族を真の家族として迎えるのです。何ともファミリー映画として正しすぎるオリジン『シャザム!』、大人になるって実は楽しい事だったんだと仕事帰りに『シャザム!』を見て昔の気持ちを思い出しました。
茶一郎

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