群青

シン・エヴァンゲリオン劇場版の群青のレビュー・感想・評価

4.2
2021年劇場観賞2作目。



アーティストが曲を書くこと。
作家が本を書くこと。
アニメーターがアニメーションを描くこと。

何かを創造することは、それに触れた人たちが楽しんでくれることも大切だが、自分の心情を整理することと同義だと認識している。


例えば、誰かが亡くなった時。
例えば何か失敗してどうしようもなく自分を責める時。
例えば死にたいくらい辛いことが起きた時。
それでも腹は減って何かを食べなくてはいけない時。
悲しくてひとしきり泣いた次の日、部屋に朝陽が差し込んだ時。
例えば向かいのホームに電車が来た時。

何かを感じた時、自分がなぜその気持ちになったのか、その気持ちを経て自分はどうなるのかを創造に落とし込む。
芸術とはそういうものだと思う。

そうした作品が時として誰かを救ったり、救うほどでもなくても何かしら影響を与える。
創造性の素晴らしいところだ。


庵野監督にとってそれはエヴァンゲリオンであり、私にとってはこのレビューを書く事だった。


監督はTVアニメを毎週作りながら心身を削り、ついに最終2話、庵野監督な心情はカオスになった。
作り直した旧劇はより混沌としたものだった。
月日が経ち新劇場版を発足させ序・破・Qと立て続けに製作したものの、震災後に出来上がったQにて再度心身は限界を迎え鬱状態になってしまった。
そんな時は樋口真嗣から誘われ、監督したのがシン・ゴジラだった。

魂を燃やしてアニメーションを創造し続けた庵野監督。
彼は何を感じて創造を続けたのだろうか。
シン・ゴジラという休息を経て何を創造したのだろうか。

今作はその疑問に実にシンプルに答えてくれた。

今作は紛れもなくテレビアニメが始まって20数年の集大成だったのだ。
同時にこの20数年、具体的には旧劇から新劇までの10年、Qから9年が監督にとっても我々観客にとっても必要な期間だったことがわかった。


作品内の展開の順番に感想を書いていきたいと思う。


前半はニアサーを生き延びた人々が細々と生きる第3村での生活が描かれる。個人的には今作の白眉だと思う。
村人は助け合いながら、野菜を育てたり、図書室を設け、子供達に教育を行う。怪我をすれば医者が診る。
たとえ終わりが近かろうと、その終わりまで精一杯生きる人たちの営みがそこあった。
シンジは前作から完全に塞ぎ込んでしまっていたが、アヤナミのそっくりさんは人々の営みに触れることで感情や生きる事を学ぶ。

ここで描かれるのは圧倒的な生の描写だ。
当たり前なことなのだがその当たり前が尊いものとして描かれていた。

思い返すとエヴァで生の尊さをストレートに描くシーンはほぼなかった。元々監督も肉は食べないらしく、旧劇から察するに生命やそのシステム・サイクルに対して恐怖というか不安を感じるような感性の持ち主だったからだ。
それがどうだろうか。今作では汗を流して労働をし、読書して教養を学び、助け合っている人々を描いていた。
これが生に対する全肯定でなければなんなのだろう。
正直このシークエンスだけで3時間やっても良いと思えた。
なによりアヤナミレイカワイイ!笑

シンジはそこで大人になってしまった友達と会う。
みんなシンジに優しく声をかける。
家出をしても場所の確認だけでそれ以上詮索しない。
シンジは自分のした事を悔やみ生きたくないと望む。しかし友達たちはあくまでシンジに優しい。

ケンスケがシンジにニアサーで沢山の人が亡くなったが、同時にそのおかげで生まれた命(トウジと委員長の子供)がある事を伝えた。本当にその通りだ。震災で沢山の人が亡くなったがそれがきっかけで出会い愛を育んだ人々がいるはずなのだ。
シンジはそれでも無気力だったがアヤナミレイやアスカがそれぞれの方法で彼に生きる事がどういう事を問う。
そしてどんなに塞ぎ込んでも夜が来て朝が来てしまうし、腹は減ってしまうのだ。
どんな絶望に追いやられて、生きたくないと思っても、体や世界は絶えず変化していく。

ここで孤独や絶望に対抗しうる最大の武器が提示される。即ち他者による優しさや慈しみだ。

友達の優しさに触れついに彼は慟哭する。何故自分がこんな事をしたのに周りは僕に優しいんだ!
それはシンジが一番わかっていることだった。

自分のことを気にかけてくれている。
自分のしたことは確かに結果的には悪いことになったが、全員が全員あなたを責めるわけではない。あなたのしでかしたことで生まれた命があったこと。
責任を取り次に何をすべきなのかは自分で選べること。

アヤナミレイの顛末で彼はついに決心した。
実に自然な流れだった。


後半はヴンダーとマリ・アスカによる最終作戦とその顛末だ。

ここでは監督のアニメーションとエヴァンゲリオンという作品のファンに対する感謝と、エヴァンゲリオンという作品自体が持つ呪いからの解放だ。


基本的にエヴァンゲリオンは父殺しの話だ。
亡き妻を慕って人類全員を巻き込む計画を行う父と、その計画を阻止し人と人との繋がりに意味を見出す息子の話だ。

今作では父たる碇ゲンドウはこれまでで一番長くそしてはっきりと事細かに自分語りをする。
そこでの彼の話もわからんことはない(というか知識やピアノが好きというのも庵野監督のことか?)が、やはり自分勝手な願いのために人類は巻き込めない。

これまで自問自答だけを行なってきて他者との深い関わりを避けてきたシンジが初めて父と対話を望む。
そして息子から手を差し伸べることによって父の息子に対するわだかまりを解く。

25年かかった父と息子の和解だった。

シンジは父を救うだけではなく、アスカ、カヲル、レイをも救っていく。
なんとかっこいい主人公だろうか。

自分はケジメをつけるために犠牲になる事を選ぶが最後の最後で母が文字通り背中を押す。
あなたは生きる世界を生きてほしい。
親からの子に対する普遍的な願い。
素晴らしかった。


自分のケジメ、友達へのケジメを終えたシンジ=庵野監督はついにエヴァンゲリオンを作ることについて言及していく。
メタ的に撮影所を舞台にして、これまでのアニメをフラッシュバックさせながらキャッチコピーであるさらば、全てのエヴァンゲリオンの通り、全てのエヴァを捨てて次の世界を生きる事を決める。
ここはメタ要素が少々やりすぎに感じてしまったが問題ない。

カヲルがシンジに語りかける言葉が胸に響く。
君はイマジナリティではなくリアルで救われていたんだね(正確な言葉は違うかもしれない。まだ鑑賞は1度だけ)、はシンジに対してはもちろんのこと、監督とこれまで観てきた観客に対して言及されていることは間違いない。

作品を重ねることに傷つき疲弊したがそれでも作品を創り続けることによってアニメーションや周囲の人々に救われた監督。
作品を重ねることに心を揺さぶられそれでも25年付き合ってきたファン(新規含めて全員)

どちらもアニメーションによって傷つきアニメーションによって救われた。
誰かのせいで沢山傷つき、後悔することもあったが、それと同じくらい誰かのおかげで救われていた。

それはすなわちアニメーションと人生を生きることへの全肯定だった。


だからこそシンジとマリが敷かれたレール、つまりエヴァというレールに乗らず、ホームから駆け出していくラストは、シンジたちが背負ってきたエヴァからの解放、エヴァンゲリオンという作品からの解放、アニメーションからの解放を意味している。

解放と書いだが決してそれはアニメから出ていけということではない。
アニメのおかげで今があり現実世界に希望を見出だせたから、だからこそ明日を生きていこうよ、という監督からの餞だということ。

シンジとマリが走り出すとほぼ同時に始まる宇多田ヒカルのOne Last Kiss。
完璧なエンディング。


思えば気持ち悪い、から長かったからこれで監督も観客も報われたのではないだろうか。


思うところがないわけではなく、例えばアクションが冒頭がハイライトで、残りはエモーションはあっても誰がどうしてるかの見せ方が下手なのか雑なのかよくわからなくて、単純に面白くなかったこと。
先述したメタ的な演出も良さはあるが、同時に不満でもある。生まれ変わった世界も別に普通にアニメでやってくれたらと思った。

良い悪いをポイントポイントであげればキリがない。いつもエヴァはそういう誰かと語りたくなるものなのだ。
ケンスケとアスカの関係は恋愛的なものではなく14年関わっていく中で出来た信頼関係だと思うし、シンジとマリもそのような関係ではなく旧劇に引っ張られない新劇のキャラと旅立つことでシンジの解放感を表していると思った。


総括的には庵野監督に感謝しかないし、何より庵野監督も今作を描き切って本当にスッキリされていると思う。それを考えるだけで会ったこともないがとても嬉しい気持ちになる。よかったね、お疲れ様と言ってあげたい。


本当にありがとう。
素敵な作品だった。



最後に書くけど神木隆之介くんはこれで宮崎駿、細田守、新海誠、庵野の作品に出たってことですよね?え、どういうこと?笑
神々にでも愛されているんでしょうか?笑
群青

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