茶一郎

ノクターナル・アニマルズの茶一郎のレビュー・感想・評価

ノクターナル・アニマルズ(2016年製作の映画)
4.4
 映画が始まり開始数秒、見せつけられるのは、スローモーションで乱舞する裸の超肥満女性。もうこの画を見ただけで、トム・フォード監督の前作『シングルマン』がまぐれではないことが分かり、監督のビジュアル・ストーリーテラーとしての才能は確信の領域に達します。

 アートギャラリーのオーナーとして生活を芸術に囲まれ、経済的に何一つの不足もないスーザン。彼女の元に送られてきたのは、20年前に離婚したエドワードの書いた小説「ノクターナル・アニマルズ」、それはテキサスにて妻と娘を惨殺された男を描く暴力的な内容のものでした。
 今作『ノクターナル・アニマルズ』は、現在のスーザン・劇中小説「ノクターナル・アニマルズ」・そしてその小説に触れたことでスーザンに蘇る元夫エドワードとの記憶、この三つの映像世界を同時並行で見せて行きます。なぜ、エドワードはスーザンに小説を送ったのか?複雑極まる今作は、まるでデヴィット・リンチ的な悪夢世界に、トム・フォードの美的センスを加えたアートに満ち、理性的な『マルホランド・ドライブ』と言えます。

 スーザンに捧げられた元夫エドワードによる小説「ノクターナル・アニマルズ」。この小説は彼女に対する復讐なのか?愛なのか?宣伝文の問いに対し、監督トム・フォードは中盤に「REVENGE(復讐)」と書かれたキャンバスを登場させ、この問いを早々に片付けてしまいます。
 つまるところ今作『ノクターナル・アニマルズ』の本質は上記のつまらない問いにはあるはずが無く、トム・フォード監督が監督デビュー作『シングルマン』から描いてきた「全てを手に入れた主人公がいかにして人生の意味を見出すか」もしくは「全てを手に入れた主人公がいかにして人生の無意味さに気付くか」に帰着します。
 分かりやすくスーザンの母親をいかにもアメリカ然とした物質的成功に囚われた女性として登場させた上で、異常なまでに無機質なスーザンの仕事場と(これまた)異常なまでにロボット染みた服装や生気を感じさせない喋り方をする仕事仲間を見せてくる。これはスーザンがすでに母親の価値観のレール上で人生を遂行しているということ、またいかに彼女が無機質な生活を強いられていることかを強調します。
 不眠症のせいで夜も寝ることのないスーザン。そんな彼女が決して不眠症の治療を始めない理由は、昼間の無機質な生活から逃げ出せる世界が、彼女にとって世間の目がつぶる「夜」しかないからなのではないでしょうか。
 このように今作の寂れたスーザンの生活と、同じく無機質で愛の無い生活をしている『シングルマン』の主人公を一貫付けると、今作のラストから『シングルマン』の冒頭へは世間的には成功をしたが、実は心が満たされていなかった主人公の自身に対する気付きという点で繋がって見えてくるのです。
 
 また原作から小説内小説の舞台を男の中の男が生きる舞台「テキサス」に変更したことで浮かび上がるのは、トム・フォード作品において「男らしさ」を強要され苦悩する男性登場人物の存在でした。前作『シングルマン』では同性愛者である主人公が「サオなし」と間接的に蔑まれるシーンがありましたが、今作『ノクターナル・アニマルズ』のエドワードも「繊細すぎる」と男らしさをスーザンの母に非難されるシーンがあります。
 そのエドワード=「弱虫トニー」が自身の小説内において男の生きる場所「テキサス」で、男らしさを獲得する。そして同時に現実世界でもエドワードは大胆に獲得した男らしさをスーザンに体感してみせます。そのエドワードの復讐でもあり、愛でもある行為に、自身のブルジョワ的な無味無臭な生活への気付きと共に恨むことなくどこか満足げになるスーザン。この瞬間こそ、夜行性の獣(ノクターナル・アニマル)であるスーザンに訪れた無機質な生活からの唯一の解放だったようにも思えてきます。
茶一郎

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