おりん

帰ってきたヒトラーのおりんのネタバレレビュー・内容・結末

帰ってきたヒトラー(2015年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

あなたは笑える?笑えない??
民衆心理の本質、カリスマによる人心掌握、笑いとはなにかを目の当たりにする作品。

突如、現代に帰ってきたアドルフ・ヒトラー。
現代の技術、やたらと一緒に自撮りしてくる人々、戸惑うアドルフはちょっと可笑しいです。
テレビ局をクビになった映画監督志望のザヴァツキは、ヒトラーを見つけ、一発逆転を目論みます。動画に撮って、テレビ局に売り込もうというのです。
ヒトラー本人はというと、自分がよみがえったのは「神意」ととらえ、民衆の心を再びつかむことを心に決めます。

テレビを見ながらキレるヒトラー。
「プロパガンダに使える」この素晴らしい技術を、料理番組ばかりで埋め尽くすとは何事かという訳です。
ヒトラーは自分の番組テーマを「政治」と決めました。
ザヴァツキはというと、ヒトラーに似た「面白い」コメディアンを見つけたといったところです。
様々な土地を巡りながら、ドイツ中の民衆の声を聞く2人。
ドイツは移民の問題を抱えているようでした。
海外から移住してきた人々を良く思ってはいないものの、「第二次世界大戦の失敗」から何も言い出せずにいるのでした。
ユダヤ人迫害の苦く暗い歴史があります。

さて、テレビ局への売り込みに成功したザヴァツキ。
ヒトラーはコメディアンとして人気者になり、昼夜を問わずテレビ番組に出まくります。
ただのコメディアンではないのです。
「彼が言っていることは正しい“かも”」なんだかそう思える。
確固たる方針、溢れ出る自信、激しい弁舌、まさにカリスマです。

しかし、犬を撃ち殺したり、ユダヤ人であるザヴァツキの恋人を差別したりと、徐々に雲行きが怪しくなり始めます。
ザヴァツキは思うのです、この人物は本物のヒトラーなのではないか、と。

この映画は、序盤はひたすらにおもしろ可笑しく、最後の最後、存分に笑った私たちを地獄にたたき落とします。
「お前も一緒におもしろがってたじゃないか」と。衝撃のラストです。

不満があればあるほど、人の心を掌握するのはたやすい。
その不満に水をやるだけで良いのです。勝手に大きくなり、怒りという黒い実をつけます。

堂々と差別主義に賛同する人はほとんどいないでしょう。
「あの犬に、別の犬種を交配させるとどうなるか」とヒトラーはある女性に問います。
「滑稽でしょうね」という返事。これにヒトラーは「人間も同じだ」と言うのです。
これは差別ではない、区別だと。
こういった思想は、未だに多くあると私は思います。
女性蔑視であり、黒人差別であり、アジア人に対するヘイトクライムであり、LGBTへの迫害です。

「非力だから」「肌の色が違うから」「コロナを広めているに違いないから」「異性愛者のように出産しないから」
「「「「「私たちと違うから」」」」」
だからこれは区別なのだと。私は差別主義者ではないのだと。彼は、彼女は、「同じ人間」ではないのだと。
差別は怖いくらい身近に存在しています。
誰か、ではなく、私の心の内側に。

争いが起きるのに、本当は憎しみ合う必要すらないことにぞっとします。
無関心の人々がいればいい。
「彼の主張は正しい“かも”」そう思って、「おもしろ半分」で傍観している人々がいればいい。
その間に、無関心を決め込んでいる間に、気付けば戻れないところまで来ている。

ヒトラーは人々を「扇動」したのでしょうか。
彼は言います、人々に「選ばれた」のだと。
民主主義とはなんでしょうか。多数決?最大多数の幸福?
違うのだと思います。
「政治」だけでは「最大多数の幸福」しか叶えられない。公共の福祉というやつであり、選挙という仕組みとしても仕方のないことです。
ただし、私たち「一人の人間」が忘れてはならないのは、「目の前の一人の幸せ」を誰人たりとも踏みにじってはならないということです。
「政治」が私たちを決めるのではなく、「私が」政治を決めるのです。「平和だから」「関係ないから」「変わらないから」何もしないのではなく、世の中に常に目を向け、「私」の内面に問い続けなければなりません。「何が正しいのか」を。
おりん

おりん