海

ジョン・F・ドノヴァンの死と生の海のレビュー・感想・評価

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夜の空に飛行機の灯りが点滅しているとき、街でぼんやり人の波を眺めているとき、泊まるホテルの受付で家族とすれ違うとき、銭湯の脱衣所で髪を乾かしあってる親子を見つけたとき、そういう、ところどころで、わたしは自分が透明になって消えてしまったような錯覚に陥る。「どこに行くんやろか」「人混み苦手そうやのに早足しとってえらい」「部屋のベッドで跳ねる子は大人になってもやるんやもん大丈夫」「夕ごはんもう遅いから食べて帰るんかな」そのひとたちが抱えて生きている、そのひとたち以外には誰も知るひとの居ない、たったひとつの人生と感性と魂を、想像するときわたしはひたすらに圧倒されて、邪念も悩みも全部消えて、ただからだの感覚すべてで感じるものを受け容れる容れ物になる。たとえわたしの人生が、ほかの誰かと比べてどんなに優れてて素晴らしくて特別なものであったとしても、わたしには敵わない何かが、かならず、わたしが見つけこの目でみつめるそのひとたちの中にはある。お金じゃ買えないものを分け与え合い続けてきたそのひとたちの犠牲と自己愛の歴史。あの瞬間、わたしは自分が勝手にわんわん泣き出したって、驚きはしないだろう。高校生の頃に、毎日電車の中で聴いてたあるバンドの音楽があった。休憩時間には本を読んで同級生とは上手く会話もできなくて、いわゆる変わってて退屈な子だったわたしにそのバンドの書く歌詞とか伝えたい熱情は流行りの失恋ソングやかっこいいばかりのロックよりもずっと意味のある最高の音楽だった。ボーカルのひとが出演してたラジオ番組で、彼が用意したあるひとつの文章からリスナーが連想して作った文章や絵や音楽を作品集にしようという企画をやることになった。わたしはそれに応募するために一ヶ月くらい何個も文章を書き、何枚かの絵を描いて、最後に絞りに絞って文章二つと絵一枚を作品として番組宛に送った。発表の日、わたしの作品はラジオで紹介されなくて、まあそうだよねすごい人いっぱいいるもんねって落胆しながらラジオが終わったあとサイトを開くと、十個か二十個くらい選ばれた作品のうちわたしの送ったものが絵と文章の一つずつ、二つも入っていて、それがもう嬉しくて怖いほどで本当に?ほんとに?って半泣きになって何度も見返して、何度も何度も自分の文章と絵のページを読み返して、毎晩のようにそのサイトを開いては消えてないかどうか見ていた。いまだに時々開く夜がある。今見るとやっぱり拙さや幼さが恥ずかしいけど、それでもわたしの愛する音楽をつくるひとが、何百と何千と届いたであろう作品の中からわたしの作品を選んでくださったんだと思うと、それはもうあり得ないほど、想像を絶するほどに、決して色褪せることなくわたしに創作をし表現をし続ける勇気を与えてくれた。わたしの心の真ん中に立ちありとあらゆる感情を照らし出している蝋燭の火が消えずに今もなお燃えているのはそういった小さい奇跡と偶然のおかげなんだと、本作を観ながら強く思った。その子に眠る才能が母譲りのもので、その子に芽生える情熱は誰かに与えられ続けたもので、学校では変わり者で、父親とは訳ありで、あのひとに感じるのは嫉妬よりもあこがれのほうがずっと強くって、そんな少年がついにタクシーから飛び出したあのシーンでわたしは自分自身を重ねずには居られなかった。少年が大好きな俳優に自分を重ねたように、わたしも映画の中のあなたにわたしを重ねた。ママが若い頃、米米CLUBが大好きで、ライブに行ったとき彼らと同じホテルをとってて、ダンサーの女の子二人と同じテーブルに着いたことがあると話してくれたことがある。脚がちょー長かったの!ってそんな話をしてたときわたしたちは同い年の少女だったんだ。何もかも投げ出してきたそのさきにだってわたしたちがいる。なにかを本気で好きになって自分の時間と魂を捧げられることがどんなに素晴らしいか、テレビを前にして芸術を前にして笑ったり泣いたり叫んだりできることがどんなに尊いことか、ドランはいつか「無関心な知恵より情熱的な狂気の方が良い」とフランスの詩人の言葉を引用してわたしたちに伝えました、まさにそれなんだとおもう、わたしが本当に心から信じ、尊いと敬い、情熱を投じ、守りたいと願うのは、だれかの危ういまでのひたむきさと、恥を耐え忍ぶまでして貫き通したその潔さなんだ。
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