ナガノヤスユ記

メッセージのナガノヤスユ記のネタバレレビュー・内容・結末

メッセージ(2016年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

漸く観た。
未知の異言語獲得によって人間の認知能力が更新され、見えなかったものが見えるようにさえなるという、「サピア=ウォーフの仮説」の拡大解釈版ガイドのような物語。
たとえば、エスキモーの言葉には「白」を表す語が何十個もあり、故に彼らは、僕たちがただ一様に「白」としか認識できない色を細かく区別し表現できるのだとか。そんなことを学生時分、言語学の講義で必死に理解しようとした。

この理屈には実感として納得させられる部分もあるし、完全ではないにしろ、なかなか信頼に足る真理であるとも思う。しかしながら、当の僕はいまだ2ndランゲージである英語でさえ、満足のいくレベルでは使いこなすことができない。これは、ある程度真剣に外国語の習得に取り組んだ人なら共感していただける部分もあると思うのだけど、他言語を勉強すればするほど、むしろ仰ぐ壁は高くなり、母語話者との間には大きな隔絶が横たわっているような感覚に陥ったりもするもの。
学習者(僕)の勉強不足が一端にあることは全力で棚上げすると、これにはひとつ、言語習得の「臨界期(仮説)」というものが関係するとされている。ざっくり言っちゃうと、ある程度年齢がいってから外国語を習得しても、母語話者と同じような運用能力は得られないよという理屈。これは主に統語能力や発声の流暢さの差に現れやすいと言われてるけど、認知能力だって勿論例外じゃないだろう。今からエスキモーの言語を学んだら、「白」を見分けられるようになるか? 無論無理……いや、でも今でもホワイトとオフホワイトの違いくらいは何となくわかるし、10個くらいなら何とかいけるかも…。
それに、本作の主人公ルイーズは疑いの余地なく言語的天才である。劇中わかるだけでも中国語にペルシャ語、サンスクリットにまで精通する彼女が、「時制の存在しない」異言語を習得することで、時間に対する新たな認知能力さえも獲得してしまうことは必ずしも単なるファンタジーとは言えないかもしれない。
終盤、彼女の「見る」未来には、彼女が執筆すると思われる「The Universal Language」なる本がうつる。新たな世界共通語の登場。きっとこの全く新しい言語と認知能力をもってして、今日の世界分裂は終結へ向かい、人類は次なる歴史的ステージへ向かうのだろう。という未来予想図が、ルイーズ自身の認知の更新、待ち受ける運命への肯定的な受容と相まって、物語は希望に溢れた終幕へと着地する。
些か呑気すぎる印象を受けてしまうのは、言語の天才ならざる僕の
僻みだろうか。
僕が思うに、結局、この映画が始まる前も後も、言語は道具であり、武器である。それは異星人にとっても中国人にとってもアメリカ人にとっても変わらない。
他者と「対話」できることは生きる上で大きな優勢要因のひとつだ。その能力が高い者はより多くの情報を獲得し、発信し、時には命令し服従させ、自らの生存可能性を効率的にあげることができるだろう。
しかし、これは20世紀最大の言語学者であり思想家であると言われるチョムスキーに端を発する議論であるけれども、そもそも言語はコミュニケーションのための機能なのか、という疑問がある。すなわち、言語は(少なくとも今存在するものは)、情報伝達という面においてあまりにも不完全である、というのがチョムスキーの最初の引っ掛かりだった。
僕は別にこの考えを、ことさら支持するでも否定するでもない立場だけど、心に留めておくに値する疑問ではあると思う。とりわけこの映画は、言語の「対話的」側面にフォーカスしすぎた作品だったと思うから。
でも、多分それでいいのだ。なぜならこの映画が目指したのは、ルイーズという一個人の、人生に対する認識と解釈の変遷を映すことであり、それは言わば「他者」の存在しない極私的コミュニケーションの映画だったのだから。彼女の見る世界では、夫であるイアンや娘のハンナは、認知する対象の一つであり、どこまでも自分の中にあって、究極的には独立した存在でさえない。コミュニケーションに不得手な独身男のイアンは、この「革新的」風の物語には些か不釣り合いと言わざるをえない、不恰好で凡庸な「告白」をしてルイーズの人生に合流、はたまた同化する。
ヴィルヌーヴ監督は今作についてのインタビューの中で、他者に対する「謙虚さ」の必要性を説いているけど、この映画にそのような「謙虚さ」が、監督の意図するようなレベルで十分に存在したかは疑問だ。
この世界には、言語を介さないものがいて、理屈の通じないやつがおり、言語を獲得するまでもなく自分とは異なる見方で世界を眺める完全な「他者」がいる。
もしも今、人類史にとってまったく未知の、新たな異言語が現れたとして、それによって認知が更新される人間は確かにいるだろう。でも、そうでない人間もきっといる。そのような新たな分化のボーダーが生まれたとき、始まるものはなにか、また新しい同化が生まれるだけじゃないのか。僕にとって、この映画はその疑問の先へ踏み込むようなことはなかった気がする。
また、映画というひとつの「言語」としてみるならば、終盤のルイーズの覚醒以降、テレンス・マリック風の時間軸混在シークエンスに終始してしまったのも、僕が上述のような印象を受けてしまった一因と言えるかもしれない。

とはいえ、これだけ色々考える機会を提供し、僕の中の言語学的興味を掘り起こしてくれた時点で、個人的に十分楽しんだことは間違いないのだけど、やや啓蒙的な「新しそうな感じ」が妙に引っかかってしまった次第。視覚的には「時制のない」言語が円環構造で表され、マックス・リヒターのミニマル・ミュージックで始まり終わる音楽の設計も、ベタではあるのかもしれないけど、面白かった。

おそらく自分の中に大きな影響を残した作品として、あるいは本作とひとつの対を成す作品として、ヘルツォークの約10分の短編『失われた一万年』(オムニバス『10ミニッツ・オールダー』中の一編)を挙げて終わるのが妥当な気がする。
おわり。