その"嫌悪感"から目を背けるな。
今作は"いじめ"を争点に、加害者と被害者、そして傍観者の立場でそれぞれの生き方についてを鋭く問う、重たいテーマを携えている。
その為か、中には"胸糞"や"イライラする"といった否定的な意見も散見され、更には"リアリティがない"と、"リアルはもっと酷い"と揶揄する声も少なくない。
確かに、今作に登場するキャラクターは人として未熟な部分を"分かりやすく"示す為に、かなり"誇張"して表現されているから、リアリティという観点からは一歩横道に逸れているし、物語というのはそもそも現実では起こりにくい事を紡いでいくものなので、"なんの救いも起こらないのが当たり前"なリアルの方が当然残酷に決まっている。
ただ、胸糞と感じるその気持ちや、イライラするといった憤りは、この作品と実体験がリンクしなければ抱く事のない感情ではないだろうか。
何故なら、本来フィクションにおける胸糞とは、人間性を欠いた凄惨な描写や、非人道的な行い、グロテスクな表現によって湧き起こるものであるが、今作にはそういった要素は含まれていない。
嫌悪感を抱く為にそこにあるのは、"当事者意識"のみであるからだ。
特別を受け入れる事が出来なかった気持ちも
好奇の目に晒され、笑顔で取り繕う事しか出来なかった気持ちも
優等生を演じる自分が好きで、そんな自分が正しいと思い込んでしまう気持ちも
観衆を前に怖気付いて、結局なにも出来ず逃げ出してしまう気持ちも
他者との距離感を測れず、特定の人に執着してしまう気持ちも
物で釣る事でしか関係性を築けない気持ちも
自分本位な考えで、自分以外の全てを蔑ろにしてしまう気持ちも
上辺だけの馴れ合いで、決して懐深くには飛び込もうとしない卑怯な気持ちも
誰かを守る為に、誰かを傷付けてしまう弱い気持ちも
誰かを守りたいのに、誰も傷付けたくない弱い気持ちも
そんな、イライラしかしないキャラクター達は、あの日すぐ隣にいた誰か、もしくは自分自身に他ならないのではないだろうか。
今作の登場人物は、どこかに何かしらの欠陥を抱くいわゆる"コミュ障"の寄せ集めだ。
その上、それぞれの弱さがそれぞれに誇張されて描かれているから、普段取り繕って生きている部分や、本来ひた隠しにしている後ろ向きな姿を、そのキャラクターを通してまざまざと見せ付けられる事になり、気分が悪くなってくる。
しかし、その感情の根源を紐解くと、上手く世を渡る為に押し殺してきた"偽善者"としての本質を見抜かれた気持ちになるからだと気付かされる。
生きていれば誰しもが、誰かが誰かに虐げられ、貶められていく姿を見た事が"必ず"ある筈であり、関わった事がない人など皆無だと断言出来る。
では、その時あなたはなにをしていただろう。
それをしていたのか、あるいはされていたのか、はたまた見ていたのか、それとも止めていたのか。
立場は様々だろうが、それが目の前で起きて、解決に至らないまま時間だけが過ぎ去ってしまったのならば、それは同じ罪を背負ってしまったのと同義なのだ。
それぞれに度合いは違うだろうが、その立場には決して違いはない。
この作品は、題材として「聾唖」をハンディキャップに選んでいるが、容姿や学力などもっと身近なものに置き換えて、精神的に未成熟だった小〜中学生時代の事をよく思い返してみてほしい。
そしたらきっと青ざめるような感覚に襲われ、決してこの作品の事を他人事のようには思えなくなる筈だ。
そして、ガキ大将から一転、クラスの嫌われ者へと堕ちていってしまった「石田」は、その出来事により永らく精神的に苦しみ続ける事になるのだが、その後悔はある種の救いでもあると思う。
何事もなかったように生きていいのは、何事もなく生きてきた人間だけである。
しかし、そんな当たり前にすら気付けずに生きている人間がこの世には多すぎるから、尊厳を蹂躙されるような負の連鎖は途切れる事を知らないのだ。
だが、苦しみと引き換えに手に入れた、人としての正しさを自問自答する思考回路は、そんな人間には備える事など決して出来ないものである。
石田の苦しみは、要するに"自分にとって相応しい生き方"を模索する事で生まれるものであり、自問自答し続け生死の境を彷徨ったからこそ、彼はようやくずっと逸らし続けてきたキッカケに目を向ける決心をする事が出来た。
そして、そんな彼の人生はまだまだ長い。
後悔は、引きずっていればいずれはすり減っていくもの。
すり減った分だけその重さに苦しまなくなった時、残された時間で一体なにが出来るのか。
その問いに、今なら決して間違う事はない筈だ。
ただし、現実はそんな綺麗事では決して片付かない。
あそこまで自責し続け、あまつさえその念を行動で示せる人間などこの世にはほとんどいないからだ。
それを踏まえて、この作品を素直に楽しめない人は、それが正解だ。
これは心の底から楽しむようなものじゃない。
この作品を観て泣いてしまう人は、それも正解だ。
ただ、それは感動の涙じゃない。
そして、この作品になにも感じなかった人、もしくは嫌いだった人。
その気持ちは、どうかずっと忘れずに覚えておいてほしい。
それこそが、この作品に対する人として最も真っ当な感情なのだから。
最後に、どうかこの映画を観た方は「SAKANAMON」の
「テヲフル」という曲を一度聴いてみて欲しい。
「聲の形」の為に書き下ろしたんじゃないかというくらい物語とマッチしていてとても驚く。
特に最後大サビの歌詞。
「ばらばらと枝分かれてった
今だから分かることがあるよ
ばらばらがそれぞれになった
今だから会える人がいるよ
空回りしてばかりだった
後悔を重ねた今までも
いくつもの喜びがあった
全てが間違いじゃなかっただろ」
と、まるで物語における主人公の、苦悩とともに歩んだこれまでを、最後は肯定してあげているかのような歌詞で、これを聴くたびに作品の映像が自然と脳内でリフレインされていくのである。
僕の中で、もはや聲の形の真の主題歌はこれである。
また「あなたに歌う ラブソングを作ろう」と繰り返す部分は、難聴のヒロインに対する特別な気持ちを表現していると捉えると、そのミスマッチ感がまたロマンチックな雰囲気を醸してくれる。
願わくば、この感覚が共有出来る人がいてくれれば幸いである。
https://youtu.be/TYImMfFZRPU