ニトー

スイス・アーミー・マンのニトーのレビュー・感想・評価

スイス・アーミー・マン(2016年製作の映画)
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うっわ~超エヴァっぽいよぉ~。
テレビ版の最終話とまごころを~みたいだよ〜。

これを今更やるのかーと思いつつ、これがレリゴー以後の10年代後半に作られるというのも妙に納得するというか。

まあ観賞するタイミングが悪かったのもある。「来世~」の直後ということもあって、この映画に対して余計に諦念みたいなものが増幅していたというのはある。諦念というか萎えたというか。

一言で言えばオルターエゴとのセルフリカバリーあるいはセルフセラピーでせうか。それも極めて閉塞した。

この映画が徹底して内向きなのは明らかで、だからその心象風景そのものと言える無人島(これが終盤でまさに自分だけの世界であったことが明らかになるわけですけど)に他者が不在なのは決して偶然などではない。

無人島に存在するのは、ハンクとそのオルターエゴであるメニ―以外には、彼らにとって理解を必要としない獣だけだ。

終盤の、シームレスにサラの家の庭に侵入するところのあまりにもあまりな厚かましさ。そこには理解不可能な他者という存在への境界がなく敬意もない。そこにいるのは徹底して自己の延長にある、ハンクの心のうちで象られた「フリークな自分に冷ややかな視線を浴びせてくる」都合の良い他者でしかない。

あるいはこれが自主制作のフィルムであったならば、ここまでこの映画を気持ち悪く思うことはなかっただろう。

この映画の気持ち悪さというのは、たとえるなら外でオタク()であることを自己開示し自己顕示する醜悪さと近い(以前に比べると好きなもの、それ自体が好きというより、それが好きな自分が好きという自我が肥大化しているように思える)。

好きなものを好きと言うのは自由だ。でもそれって、わざわざ他人に向けて言わなきゃならないことなのだろうか? まあ、この辺はSNSあたりの発達とかTwitterが内在する矛盾(あくまで自論ですが)とも関係してくるのでドツボになるのが目に見えているので書きませんけど。

レリゴーするのは自由。好きな服を着て何が悪いのか、好きなことをして何が悪いのか。そうやって己の自由を主張するとき、そこに他者の自由が、他者にどう思われるかという視点が慮られることはない。
や、上の例えで言えばむしろ「こう見られたい!」という極めて凡俗な承認欲求か。

どうあれ、この映画では他者が不在な時点で大差ない。
徹底して自己完結するこの映画がマスターベーションを強調して(しまって)いたのは当然の結末であるといえる言える。

さもありなん。他者の欠如しているこの映画に、恥の意識なんてあるはずがない。だから人前で屁をかませるのだ、ハンクは。

別にマスターベーションするなとは言いませんが、わざわざ認めてもらおうとしなくてもいいでしょ。
現実を見ろとか言いませんけど…
肥大化した承認欲求の極点みたいな映画で、笑える部分もありますけどこれは正直なところ好きになれまへんです…。
ニトー

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