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アダムズ・アップルのろのレビュー・感想・評価

アダムズ・アップル(2005年製作の映画)
5.0

仮釈放されたアダムは更生プログラムのため教会にやってきた。
「ここで何をすればいい。」
「何をするかは自分で決めろ。何か目標はないのか?」
「じゃあ・・・ケーキを焼く。」
「庭の林檎で?」
しかしそのケーキ作りを妨害するかのように、次々と問題が起こっていく・・・。


事実と解釈はまったく別物だ、と哲学者サルトルは言った。
たとえば、ここに一口かじられた林檎がある。
ある人は「誰かがかじった林檎なんて食べたくない。」と拒絶するだろう、またある人は「まだ食べられていないところがこんなにある!」と喜んでかじりつくだろう。
拒絶するのか、それとも喜ぶのか。
事実にどんな解釈を付け加えてもいい、それは私の自由なのだ。

アダムの財布や携帯電話を、教会に住む男が盗む。
アダムはもちろん怒った、「今度また盗んでみろ、殺してやるから!」
しかし懲りずに林檎を盗んでくれたおかげで、アダムはケーキを作ることが出来た。
「盗む」という事実は同じ、アダムの「解釈」が変わったのだ。


自分に降りかかる悪いことはすべて、悪魔が与えた試練だ。
出産と同時に死んだ母も、性的虐待を繰り返した父も、生まれてきた脳性麻痺の息子も、薬で自殺した妻も。
そうやって悲しさや悔しさを紛らわしてきた牧師イヴァン。
アダムはそれを現実逃避だと責める。
医者はそれを頭がおかしいんだと哀れむ。
でもそれは本当にただの‘現実逃避’‘頭がいかれてる’なのだろうか。

アダムに追い詰められたイヴァンは、神への信仰をやめてしまう。
ふさぎ込むイヴァンの姿に、教会で暮らす男たちは不安に駆られ、アルコールに走り、銃で人を撃ちまくってしまう。
そしてその混乱に、イヴァンを追い詰めたアダム自身も巻き込まれていく。

耳から血を流し、脳腫瘍を抱え、ネオナチに頭を吹き飛ばされたイヴァン。
オーブンは二度も壊れ、カラスや虫の襲撃を受けた林檎の木はついに落雷で燃える。
アダムとイヴァン、そして林檎に起こった出来事は、悪魔のせいでも偶然でもない。
きっとどちらでもいいのだ、好きなように(解釈を)選べば。



( ..)φ

顔のパーツが変形するぐらいボコボコに殴られたのに「アダム、林檎のことよろしくな。」
生まれてくる子どものことで泣きじゃくる母親よりも、気になるのはクッキーの枚数。
予想の斜め上をいくイヴァンとその仲間たちの行動に、アダムはいつも目を丸くする。
そんな彼もまた、妊婦の飲酒を心配する心優しきネオナチ悪党なのだ。

この人は、あの人はこうだろう。こういう状況ではこう振る舞うべきだ。
「アダムズ・アップル」は、そういう固定観念を順番に吹っ飛ばしていく。
安心を求めて予想の範囲内に収めようとしても、結局そんなもの、一つもないのだと思う。
ろ