Oto

淵に立つのOtoのレビュー・感想・評価

淵に立つ(2016年製作の映画)
4.0
割り切れないし当てはめられない監督。計算し尽くされているようで無限。四つ子素数。
言葉の強さを教えてくれると同時に言葉の無力さを感じさせられる。言語を抜く訓練もしなければと感じる。

・章江が殴るのは自分の頬。手紙を読みたがるなど八坂に対して満更でもないのにいざとなると保身、夫との対話も諦めてきて蛍はある意味で自分のせい、強迫的な手洗いと眠りで現実逃避、空柄の車椅子、綺麗事を並べるが実際は蛍が重荷で走り出すのは八坂と歩いた道。「猫型」のプロテスタント信仰者として淵に立つ。

・利雄が殴るのは他人の頬。八坂への対応も孝司への対応も、自分の罪から目をそらすための甘え。「蛍は俺とお前への罰」「お前八坂とできてたろ」「8年前俺たちはやっと夫婦に」。時間を止めるウサギの人形、初めに助けたのは章江、盲目で音のみに集中するラスト(opと対応)。章江にとっても「共犯者」であるが、ついに最後は甘えを捨てて夫婦になれたか。

・八坂の約束。過剰な気遣いや蛍への敬語と対照的に、リビングでは裸、明るい中の睡眠、豹変する本音、章江を求める。受け入れてもらえない鬱憤にも見えたが、もし全ての事件において悪魔ではなく救世主だとしたら(孝司のトレースだとしたら)、約束を守るために淵に立つ。

・蛍の涙。叶わなかった発表会、殺してほしいへの反応、綺麗事じゃないと叫ぶうめき声。しかし、『Oasis』的演出と母とのシンクロ、自力で這い上がる。大切なのはオルガンではなく先生、生きたいと願っていたかもしれない人工呼吸。

・孝司の「いいっすよ」。描くのは「楽しいからというか知りたいから」は監督自身の思いであり自分の思いでは。寝たきりの母を殺した可能性、蛍の首に手をかけていた可能性、写真も設楽の辞職も計算通りの可能性。その上で蛍を救ったのだとしたら...八坂も...。並び順でいうと章江のトレース。

好きな演出
・食事が面白い作家には外れがない。『羊の木』と同じく前科者は食事でバレる。信仰と蜘蛛は結末の予告。
・露骨な色の対比。白いワイシャツ・作業着・シーツが除かれて現れる、ドレスやランドセルやインナーは血の赤。オルガンはメトロノームの有無や、歌詞の口ずさみで、繰り返しだけど変化がある。水面の光、トンネルで隠れる表情の、光と闇。
・Opタイトルの音との同調。語り主を抜かない台詞と、fixの俯瞰。
・『よこがお』と共通するのは、加害被害のループ・罪人は一般人・不穏な幸せ・悲哀の濡れ場・一定時間を挟んだ変化。メタファーがわからない人でも楽しめる親切なサスペンス設計。

監督インタビュー
https://www.christiantoday.co.jp/articles/22964/20170105/fuchi-movie-fukada-koji-1.htm
・障害者に対する海外と日本の違い。海外は後半でも笑いが多い、日本は隔離して隠そうとする。
・十字架は映さない。リアリティは第三者に確認する。アドバーザーを設けて編集する。
・死生観や宗教のテーマは卒論が影響。西川美和監督は「地獄の責め絵」。
・八坂は死刑囚が実際に書いた本が自己を冷静に分析した本がベース。自分をコントロールできると信じている人間ほど危うい。牧師ではなく連合赤軍。
・映画づくりとは、見た人が星座を描くための点を打つこと。委ねることがカタルシスや共感よりも大事。芸術や文化表現の1つの持ち得る役割としては「共感を求めない1つの価値観として社会にあり続ける」ことの方が重要なのではないか
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