茶一郎

ブレードランナー 2049の茶一郎のレビュー・感想・評価

ブレードランナー 2049(2017年製作の映画)
4.4
 「ポストモダン」、「レトロ・フューチャー」を決定付けた金字塔として、後のSF映画の世界観形成を超えて建築やデザインの分野にまで強く影響し続けているSF映画の金字塔『ブレードランナー』の続編を作るというトンデモ企画に、『灼熱の魂』から『メッセージ』まで固すぎるフィルモグラフィを抱えた俊英ドゥニ・ヴィルヌーヴが挑んだ今作『ブレードランナー2049』。大火傷間違いないお題に思われましたが、蓋を開けてみると「続編」というお題を1000%クリアしたこれ以上が想像できない出来で驚きました。

 物語内の余白や矛盾点など多くの謎を残した前作『ブレードランナー』の謎をほとんど回収、それは同じく物語内の空白・謎が多すぎる『2001年宇宙の旅』と続編『2010』との関係性を想起させながら、今作『ブレードランナー2049』はヴィルヌーヴ作品に一貫している「母の物語」という作家性を刻んだ紛れもなく一人の作家の作品として仕上がっているですから、二重の驚きであります。

 【注意】ヴィルヌーヴ作品『複製された男』、『メッセージ』と同じくネタバレ厳禁な作品です。ネタバレを踏む前の鑑賞をオススメいたします【注意終了】

 これが無ければ「ブレードランナー」は名乗れないという今作の冒頭1カット目、画面に大きく映された「眼」が開く。これは言うまでもなく前作『ブレードランナー』と同一のカットであり、リドリー・スコット監督自身も『エイリアン:コヴェナント』でセルフオマージュをするほどに代表的なビジュアル。「ブレードランナー」におけるこの「眼」は、判定テストを受けているレプリカントの眼であり、映画内に頻出する「見る-見られる」関係を強調します。つまり、我々が『ブレードランナー2049』を見ているということは、それは「ブレードランナー」も我々を見ているということであります。
 アジアが支配する世界のイメージや、広告で溢れる街並みなど『ブレードランナー』の眼は驚くほど正確に現実かつ現在の我々を見ていたということは時代が証明しました。そして前作また原作で示された「近代以後における自己の喪失」のテーマは、35年の時を経た現在でこそ、より深く刺さります。

 AI技術の発達により人工知能が人間を超えるシンギュラリティが現実味を帯びてきている昨今、何かとAIが話題になると常に「AIは敵か、味方か」の議題が上がる始末、AIはツールに過ぎないのに。(劇中の人間がレプリンカントを「もどき」と差別するように、きっと現実の人間もAIを「もどき」と差別する)
 そういう現在だからこそ、「人間には何ができるのか」、「人間というのは何なのか」、何より「我々はどこから来て、どこに行くのか」という「ブレードランナー」のテーマが効いてくる。そして今作はそのテーマを見事に拡張してみせます。

 もはや人な食事の時ですら一人、孤独という言葉の意味さえ失った人類。前作が「広告」についての偶像崇拝を指摘したとすると、今作『ブレートランナー2049』にある一人の女性を偶像として、恋愛・恋ですら虚構のものになってしまっています。
 そんな嘘の世界(この嘘の世界がリアルな現実の世界と重なる恐怖もある)において、自己を失った主人公が自分を、自分の生きる目的を見つける物語。これは前作『ブレードランナー』における今まで命令のままに生きていたデッカードが、自分の生きる目的をようやく見つけるラストからの延長線上になります。

 実に「お題」に対して100%の「回答」。リドリー・スコットは今作の製作開始時、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督に「全然難しいことじゃない。きちんと与えられた課題をこなすことができれば、きっと素晴らしいものになる。」と言ったそう。
 おそらく私が感じた今作『ブレードランナー2049』における表現上の閉塞感は、このリドリー・スコットが言うところの「課題」に全力で取り組んだ真面目なヴィルヌーヴ監督の姿勢にあるように思ってしまいます。『メッセージ』に無く、今作にあったのは「課題」だったのかなァと。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、次作の『DUNE』では伸び伸び撮れることを期待します。
茶一郎

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