ベルサイユ製麺

パーソナル・ショッパーのベルサイユ製麺のレビュー・感想・評価

パーソナル・ショッパー(2016年製作の映画)
4.0
タイトル、『パーソナ…』まで読んだところで、日課にしていた竹中平蔵を(伏せ字にするの忘れた!)呪殺する儀式を最近サボっている事に気がつきました。イッケネー☆
宜しければ皆さまもご唱和下さい。“エコエコアザラク エコエコザメリク…”

…明日、起きてヤフーのトップに訃報が載ってたら、流石にちょっとは罪悪感あるだろうか?無いか。…いやいやそもそも無関係。全ては気のせいです。


モウリーンは、バッキバキのセレブの若い女キーラの為に洋服やアクセサリーを買い付ける仕事をしている。取り敢えず。
試着は禁止。キーラに似合いそう・彼女が好みそうな物をイメージして持ち帰る。戦利品の受け渡しと、軽い会話程度なのだが、彼女の事はなんとなく分かる。
モウリーンはそのパーソナルショッピングの仕事でメゾンのアトリエとキーラの豪邸を往復する毎日。オフの時はそこそこの狭いアパートに帰り絵を描いたりする。今はこの暮らしで良いのだそうだ。
モウリーンには双子の兄ルイスがいて、2人とも心臓に同じ病が有り、兄はつい最近それが元で亡くなった。モウリーンはルイスの事が頭から離れない。彼の存在を感じたいと願い、最近では微かながら彼から届くサインを感じている、と語る。自らを霊媒師だと…。
ある日、ルイスと過ごした古めかしい屋敷で、彼のサインを感じた…と思ったのだが、それは凶暴な霊体で、大きな音や恐ろしい姿で彼女を震え上がらせた。彼女は、確かにそれを感じた。

ある日、モウリーンのiPhoneにメッセージが届く。
非通知「お前を知っている」「お前も俺を知っている」
モウリーンは、この正体不明のメッセージの送り主とヒリヒリするようなやりとりを続ける。やがて、彼女は敢えて気がつかないようにしていた、内なる願望を抑えられなくなる…。

…とか、書いたところで。

もう清々しい!一般映画のフォーマットからの逸脱ぶりにノックアウトされます。「ジャンル?何?なんで?」って言われてる感じ。
基調はアート志向のフランス映画のようで、その中にヴァーホーヴェンみたいなスリラーと、無意識に身構えたくなるような明け透けなスピリチュアル映画が同居している。腑に落ちて然るべき傾向と、落ちるはずもない傾向の作品がごっちゃになってる。しかも主人公自体がスピっているので心象や願望と、実際の現象の見極めが非常に困難。…しかし一方で、モニターを見つめる愚肉ことわたくしと、モニターの中で結晶の様に純粋な美しさのクリステン・スチュワートの、どちらを信じるべきなのか、というのは結構真理に迫る問題かもしれませんね。はい適当。

あの世の兄からのサインを待ち、誰からか分からないテキストメッセージはそのサインなのではないかという考えを打ち消せないモウリーン。閉じ込めた内なる欲求と、外界からの刺激の狭間に、確かにモウリーンは形取られ存在する…のか?
一方、何処からか届くメッセージやあの世からのサインの送り主の実存はどのように確認すれば良いのか?自分、ホントに生身の人間とやりとりしてるのかな?

そもそも、人は、どうやって自分の実際を確認する事が出来るのでしょうね。自我が有るから人間?自分や、あなたを形作るものは?それらは本当に別のもの?

この作品、矛盾やほつれの無い一本の物語として理解するのが本当に難しい。筋道立てていく上で大きなネックになるのは、中盤の夜の屋敷での出来事と、終盤の“サイン”のシーンだと思います。これらを一編に飲み込めるようにする解釈って、もう“そもそもアレ“”ってくらいしか残って無いようにも思えるのだけど…。だとしたらどこからそうだった?

あー、もう、いつまでもこの映画の事考えてられます。全ての要素がルーズフィットで、一向にカチッと嵌らない。主演がクリステン・スチュアートだからこそ成立しているのは間違いないと思います。ジェンダーの揺れ幅を、エロスとタナトスの狭間を無自覚に横断出来る彼女についての物語だからこそ、無限に思考を巡らせる事が出来る。スカ・ヨハとかではこうはいきません。
一本の作品で、これだけ頭を働かせる事が出来るなんてお得としか言いようがありませんが、あんまりコッチにかまけていると、日課の呪殺の方が疎かになっていけません。

…よし!今日はもう少しやっとくか!
エコエコアザラク エコエコザメリク…