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LOGAN ローガンのYMKのネタバレレビュー・内容・結末

LOGAN ローガン(2017年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

鑑賞日17.06.03
X-MENシリーズ、ウルヴァリンシリーズを見続けた人、ヒュー・ジャックマンファン、問答無用で見届けろ。

事前に、ヒュー・ジャックマンの最後のウルヴァリンがこの作品だというニュースを受けて、そしてこの予告。シリーズを共にしてきた人たちは特に「見たいけど終わってほしくない」という複雑な気持ちを抱くだろうし、終焉に向かうエピローグのような哀愁を感じずにはいられない。そんな気持ちを更に煽ってくる、この予告で使われているジョニー・キャッシュの「Hurt」。夕日として沈むギリギリの美しさと儚さを持つ太陽に思えないだろうか。

そんな曲の印象もあってか、全体的に静かで暴力的で哀愁味溢れる作品に仕上がっている。書いてしまえば簡単だが、とにかく壮絶な内容である。その理由として上げられる設定が2つある。

ひとつはローガンが背負う傷。アダマンチウムが蝕む体内におこる異常と闘いつつ、無敵の治癒能力を誇っていた身体に、老い過ぎたからか残ってしまう傷。こんなにもボロボロなウルヴァリンを観ることになるとは思わなかったとショックを受ける事だろう。

序盤のシーンで、ローガンは運転手として社会に溶け込みながら生きていることがわかる。冒頭から鬼気迫るアクションをみせつけられたものの、冷静に見ればチンピラを追い払うのも一苦労になっているということだ。観る側は「やれやれ!」と心の中でエールを送りつつも、かつての面影の無さに多少動揺しながら本編に進むことになる。単なる一般人相手に、まるで技を派手に繰り出す強敵と戦っているかのような迫力を見せられてもちょっと虚しい。そこが今回の味になっていることを忘れずに。

もうひとつの設定は認知症のプロフェッサーXを介護する生活と言う事。自分の身体だけでも深刻なのに、現実世界でも問題になる老老介護の現場があった。教授・・・ご老体で車椅子に座るシーンより、寝たきりシーンの方が今回多いんじゃないか。教授の能力による暴走は発作としておこり、広範囲で影響が出るためローガンは教授を閉じ込め、薬を投与することで抑制するしかない(本編で触れる、過去にあったとされる発作による大規模な被害は、恐らく過去シリーズの出来事ではないような気がする)。

そんなこともあってか、ミュータントがほとんど存在しないこのご時世に政府から兵器として見なされてローガンたちは追われることになるというのが今回の始まり。一体、シリーズとしてどこに当たる部分なのか・・・?と手探り感満載で観ていたが、本編が進むにつれてそんな表面的な見方はできなくなっていった。

思い返せば、X-MENシリーズの原点は公民権運動と並行して存在した作品であり、差別するものされるものの関係をミュータントに置き換えて教えてくれるヒーローものである。過去シリーズでミュータントの活躍によって社会と不自由なく共存する兆しがあった中、今回はミュータントが政府から危険視されて差別では無く排斥の対象になっている。

最近のアメリカも宗教や人種による違いで更に差別や排斥が浮き出されている、まさにこのタイミングでミュータントが排斥される『ローガン』を観ることは、色々と相まった現象だと感じている。そういう意味で特に注目してほしいのが、今回ローラというメキシコ人少女を守りながらアメリカ政府から逃げる図式だ。メキシコ人という設定も意図的なものを感じずにはいられない。

ほら、もう『ローガン』が「正規の続編なのか?」「どこの作品から続く話なのか?」という部分が大して重要じゃなくなってきたでしょう?ヒュー・ジャックマンによるウルヴァリンにさよならを言う覚悟が出来ればそれで十分です。実際には過去シリーズに関連するセリフやシーンが登場したり、『アポカリプス』で登場したキャリバンも登場するが、正確にどの続編かは深く考えられない。

埃にまみれ、血にまみれ、暴力まみれで華が無い。わざわざR指定も取ったし、それも効果的に活かした、もがき苦しむ様を描いたヒューマンドラマのテイストだが、プロモーションの段階で「それでも『X-MEN』シリーズだぞ!」としっかりと強い主張が感じられたので、その時点から感動を覚えている。

きっと映画館へ行けば作品ポスターがずらりと貼り出されている中で、『ローガン』のポスターはひときわ異色で独自の雰囲気を醸している。その手の画とタイトルの『ローガン』だけで、これはウルヴァリンの作品と分かる人には特に伝わるものがあるはずだ。一匹狼で単独にこだわるウルヴァリンが少女と手を繋ぐ。これだけでも異常事態だが、その手はボロボロ。あのポスターの時点で美しさと悲壮感が伝わってくる。

ある意味、スーパーヒーローの果てを見せられ、考えさせられた。ヒーロー作品ものはその活躍によって平和を取り戻すが、その作品が終わった後もその平和は続くものなのだろうか。また新たな脅威が迫った時、同じような活躍ができるのか、老いと闘うのか、能力の劣化とどう向き合うのか。

スポーツ界でも同じだ。今の現役選手で言えば松坂大輔をイメージしてもらえればどうだろう。球界を代表する地位まで上ったが、近年では日本球界復帰以降華やかなニュースは一切無い。自分の身体も怪我や病気を引きずっているし、周囲からも迷惑がられる存在にもなりつつある。

最近の野球ファンも気に留めていなかったり、そもそも松坂を知らない人もいるのではないだろうか。冒頭でミュータントの存在が薄れているはずなのにメキシコ人女性に「ウルヴァリン!」と呼ばれるものの、周囲はミュータントだと騒がれる事も無く「なんのこっちゃ分からない」で済んでしまう。今までの感覚からは違う、X-MENの世の中が完全に変わってしまったと印象付けるシーンにもなっている。

スポーツ選手の引退タイミングでよく、ピーク時で終わるか、ボロボロになりながらも長く居続けるかで悩む場合が多いという。引退セレモニーが行われるのか、会見だけで終わるのか選手によっても様々だし、いつの間にか戦力外通告を受けて静かに消えるかもしれない。今回のウルヴァリンはどう見てもそのパターンだが、引退や戦力外とはまるで違う運命なのでもっとヘビーに漠然に「ヒーローの終焉」とでも言いたい。

後継者が居るわけでもなく、自分の能力を他人に譲れるものでも無い。私たちも勝手にヒーローと位置付けているが、ウルヴァリンはヒーローという役割ではなく運命で孤独にもがいていた。その果てとして『ローガン』は絶望を描く。そんな状況で悪に立ち向かうからこそ、ウルヴァリンからローガンに変わってしまった今でも「雄姿」として輝かないわけがない。戦闘力は実質3人の中で一番高いのはローラだろうけど、必ずシーンのどこかで過去シリーズで観た最強格のウルヴァリンを思い出すはずだ。

エンドクレジッドの余韻に浸りながら考えたいこと。それはX-MENの向かう先だ。『アポカリプス』で一連の完結を迎え(エンドシーンの関連性も謎のままだが)、『ローガン』でウルヴァリンシリーズも終了。しかし残された人達による新たな動きに希望が持てるのも事実。

さて、私たちはX-MENとどう向き合おうか。MGSのスネークを見送ったのと同じく、泥臭くて華が無い、けど清々しい最高の幕引きを見た。
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