ニトー

バイバイマンのニトーのレビュー・感想・評価

バイバイマン(2016年製作の映画)
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リング」の口伝バージョン、というか。あちらはまさに「映像」を観ることによって感染するという映画に忠実な映画(なんだこの言い回し)だったような気がするのですが「バイバイマン」はその情報伝達が言語であるというのがかなり興味深い。

こと「伝える」ということに関しては人間は言葉に大部分を依拠していて、なおかつ情報を伝える(あるいは伝えない)ということは社会性動物である人間にとっては生存において重要な役割を持っているはずで。
本質的に、人間は言葉によって情報を伝える生物であり、それがこの映画の燃料になっていると思う。そこにあるのは能動性、というか「観る」という行為は相対的に受動的であるというか。

えーともかくそういうアクティブな伝えたいという欲求(不満の解消)の発露。恐怖を一人で抱え込むことへの不安、それを共有したいという願望。4人が手をつなぐシーンなんて、まさにそれそのものでしょう。

そういう、人間の持っているシステムを巧みに使っているのがバイバイマンというクリーチャー。

これ、たとえばブキミちゃん的な話だと思えばわかりやすいと思うんですよね。それが危ない情報だと分かっていても(あるいは逆に分かっていないから)伝えずにはいられない。好奇心であれ恐怖心であれ、そうやって致死性の情報が拡散していき被害者が増えていく。

あとはバイバイマンの殺し方。ここでまた「視覚」的な演出を取り入れているのもグッド。
それが、逆説的に目に見えるものだけを信じるしかない人間の脆弱性を暴いているのも、まあ別にこの作品がトレイルカッターというわけではないですが、こうはっきりとした一つのモチーフとして使ってくれるのは珍しい気がする。この辺はちょっと「スパイダーマンFFH」のミステリオ戦を思い浮かべたりするあたりだったりしました。

あとはそう、昨今の情報社会(この言葉も懐かしい響きを帯びているなぁ)における真偽のわからない情報に踊らされる現代人のメタファーとして捉えるのもアリっちゃアリなのかも。
ほかで気になったのは、黒人が疑われ・(幻覚において)たぶらかし・殺人をおかし・襲われる対象に終始しているという点が、すごく意図的なものに思えたんですよね。
そして、そこに口伝という語りが加わることで人種問題みたいなものをそこはかとなく盛り込んでいるのでは・・・というのはさすがに考えすぎだろうか。


まあ、ナイトテーブルのくだりとか、特にラスト方面の姪っ子のどっきりのためだけに粗雑に処理した印象は否めませんし、手放しでほめられるものではないと思いますけど。

あの幕引きの仕方はB級にありがちではあるものの、よく考えればバイバイマンのロジックとしては至極当然なのですよね。自己(という概念がバイバイマンにあるのか不明ですけど)の存続・拡散のためにはそのコミュニティ内を全滅させてしまっては不可能になってしまいますから。
そういう意味で、極めてウィルスとかの感染プロセスみたいなものを踏襲しているんですよね。そういう意味でも貞子的というか。


個人的にはバイバイマンはむしろあそこまでクリーチャーっぽくせずに徹底的に(それこそ貞子みたいな)霊的な存在であった方がより生理的な恐怖を掻き立てることができたんじゃないか、と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。
ニトー

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