ペドロ・コスタが『荒野の女たち』について「ジョン・フォードは絶対『赤線地帯』を意識して作ったはず」と語っていたというエピソードを某SNSフォロイーの方から伺い、俄然興味が沸いて『赤線地帯』を観直した。以前観たのはいつだか思い出せないし(傷だらけのフィルムで音も悪かった記憶があるので並木座か昔の文芸坐かも)京マチ子の「うちヴィーナスや」という強烈な台詞と女たちのけばけばしい衣装くらいしか覚えておらず『夜の女たち』と混同してるところもあった。この80分強の女たちの物語が遺作となったこと、尺が短いという点でも奇しくもフォードの遺作『荒野の女たち』と符合することは蓮實重彦も指摘していたが、ペドロ・コスタのエピソードは探すことができなかった。
何とも言えない気持ちになる。ミュージックソーの音色が奇妙な黛敏郎の音楽。不良の家出娘ミッキーを演じる京マチ子が父親と対峙するシーンで泣いた。彼女の純粋さが透けるような演出。いい役だな。「夢の里」という名の吉原の娼館の二階、狭い廊下の奥に消失点を置く構図に『荒野の女たち』の伝道所の狭い廊下との共通点がみえる。また三益愛子が狂ってしまうシーンは、彼女を建物の奥へ誘導し手前に仲間の女性たちや客らを配置し恰も舞台に立つ役者のよう。宮川一夫のカメラの素晴らしさ。
「女一人で生きていくことが非常に困難な社会構造」を痛烈に畳み掛けてくる脚本は原作によるところが大きいのかもしれない。女性に腕力が無いから・能力が無いから一人で生きていけないのではなく、女性が労働の対価を得るための生業が男性中心の社会構造によって極めて限定されてきて、古くより(男性から)許されてきたのが性産業。売春禁止法で罰せられるのは女性で、その仕事が無いと生きていけない構造は男性が作った。当然、禁止されても地下に潜り看板を変えて続いている。需要は確実にあれど、需要されると同時に貶められる。自らの尊厳を最も削られる仕事として描かれる。「夢の里」の女性たちのシスターフッドがほの見えるシーンもあるが虚しさの方が勝る。
小津安二郎『風の中の牝雞』もそうだったが、同じ穴の狢であり身に覚えもあろう男性たちはどうして、身近な女性の金を稼ぐ手段が性産業であると知った途端に蔑むのか。病弱で木暮実千代に養われながらも「人間のクズだ」とその仕事を蔑む夫。三益愛子を「汚い」と突き飛ばす息子。性産業に関わったことのない女性にも、というか社会全体にその感情はある。仕事で稼いで男を騙すだけでなく仲間内への高利貸しとなって金を貯め込む若尾文子は、男の従属物であるふりを徹底することで、殺されかけながらも布団屋の女主人になる。そこまで狡猾にならないと生きていけない構造。
敢えて『荒野の女たち』と『赤線地帯』を比較するなら、フォードの作品は絶対的な悪としてアジア系男性集団を配置し、ただ一人エンパワメントとなり得る男性として(しかしとても弱く脆い存在として)エディ・アルバートを配置するという、ある意味わかりやすく、それゆえにスピード感と熱量のある作品となっている。対して『赤線地帯』の男性たちはその一人ひとりが、上記のような社会構造をちくちくと炙り出す存在として配置されている。