ベルサイユ製麺

シェイプ・オブ・ウォーターのベルサイユ製麺のレビュー・感想・評価

4.1
冒頭の『パターソン』ばりの軽快極まりないシークエンスに胸は踊り、ムクムク春が起きあがる。そう、なんだか特別視されがちだけども、リビドーは生活の背骨みたいなものだ。布で隠しても生殖器は無かったことにはならない。口を閉じても舌は快楽を求め蠢いている。奔放に、リズミカルに、全ての悦びを反響させながら、凡ゆる日常は、生命は転がり続けるべきなのだ…が。

傷口から滲む血膿の匂いが、容易く日常に死の影を落とす。それに怯え、命は大抵あらぬ方向へ走り出してしまう。それはまあやむを得ないのだが、問題は、“はて人間は?”であるよ。
そなたもmeもパードレも朕も、ほんの一昨日までは同じケモノだったではありませんか!仲良く泥浴びをし、同じ屍肉を貪り食った同士ではありませんか!だのに…。
泥を汚いと感じ、プラスティックを便利だと思う人間の“生”の歪さときたら…。“シャー!”ときたら“シャー!”と返し、勝ったからムシャムシャ食べるのが自然の理です。タッチで“シャリーン!”“ゴトン”“ゴクゴク”からのポイ!のループで、永遠に分解されないゴミを遺すのはテロリズムに他なるまい。

…と、問題をやたらデカくするのは、目の前の問題と向き合いたく無い時の私の常套手段です。
余りにも豊かで、示唆に富んだ、美しい映画体験の果てに地獄がパッカリと口を開けている。

“住む世界が違う”問題に昨年の春先直面し、楽園を追放された自分にとって、ラストシーンの美しさは“正しき道を歩んだ”者が、この世の終わりに観る光のようでした。眩しくて目が潰れる。思い出すとたちまち気が狂う。

自分は二度とあの体温を感じる事は無い。瞳に映る自分に微笑み返し合う事は無い。凡ゆる事を物語る無言の時を過ごす事は…。最早、それが出来るのはファンタジーの世界の中だけなのだ。
ありがとう、デル・トロ。完璧でした。

持ってないものにはどうしたって憧れててしまうし、手に入らないならいっそ永遠に失くしてしまえばよい、ってのはやはり人の理でしょうかね^ ^
じゃあいっそのこと…


“人間やめときな 野生の石になれ
人間やめときな 野生の泥になれ”
“人間やめときな 野性のオスになれ
人間やめときな 野性のメスになれ”

ゆらゆら帝国『人間やめときな’99』より抜粋いたしました☺︎