カリカリ亭ガリガリ

夏の娘たち~ひめごと~のカリカリ亭ガリガリのレビュー・感想・評価

夏の娘たち~ひめごと~(2017年製作の映画)
5.0
堀禎一の遺作である。という紹介のされ方が全く不釣り合いな、遺作にしてはあまりにも短すぎる、あまりにも若すぎる、あまりにも生命感に満ちた映画が、不可逆的に"遺作"になってしまったこと。その事象自体が、あらゆる時間を半ば暴力的に断絶/省略する堀の映画のような感触を余韻として残す。それでも、彼は本作を置き土産として撮ったつもりは全く無かっただろう。堀のインタビューやメイキングを観れば判明することは、彼がどの作品も、文字通りに魂を削りながら映画館を撮っていたということに他ならない。つまり、『夏の娘たち〜ひめごと』とは、魂を削って映画を撮った者だけに赦された"遺作"なのだ。

確かに、劇中には死の予感というものが幕開けから通奏低音としてフィックスされており、最終的に冠婚葬祭は一度ずつ描かれ、描かれなかった葬儀を伝聞して映画は終わる。通夜振る舞いのシーンで川瀬陽太や速水今日子ら、昔から堀を知る俳優たちの姿が描かれる。それはぼくたちにとって、まるで堀監督の通夜が堀監督の作中で描かれていると錯覚しがちだけれど、これは中盤で起こるささやかな集いであって、強引にメタ視点を持ち込むのはちょっと乱暴かもしれない。死によって、生者たちが久々に集まる。死に引き寄せられるかのように、誰かは新たな生を選択し、また誰かは新たな死を選ぶ。死の場所で行われるセックス。生と死は対照的なのではなく、実は同じようなもの=冠婚葬祭とは親族が集うきっかけ、として描いている。殊更に死を連想する必要はない。そうではなくて、この映画は結婚で終わる、というストーリーテリングにこそ注目すべきだ。堀の遺作は結婚で終わり、二人で寄り添い合う地蔵が彫られた石がラストカットなのだから。死というより、最後まで生への執着でみなぎっているじゃないか。

死の予感を徹底させながらも、川辺ではしゃぐ若者たちの健康的なダイナミズムは、増村保造の『くちづけ』のような清々しさがある。思い返せば、堀の映画にはいつだってこのダイナミズムがあった。それは団地に住む熟年女性にすらあった。肉体の健康、その極地としてセックスがあった。堀が最後に描いたセックスには、劇中で初めて発声される「好き」が添えられていた。あくまでも、死ぬことよりも死ぬまでをどう人間は生きていくか。そういうことを見つめ続ける作家だったと思う。

ぎこちなくズームされるカメラ。その瞬間の、まさに今映画を観ている!映画に生命が宿っている!という感動。
絶対に他の監督じゃ出来ない。

2017年、やがて堀を尊敬することになる親友と出逢った年に、堀は亡くなった。この4年間、親友は堀のフィルモグラフィを網羅したものの、どうしてもこの遺作だけは未見のままでいた。自分の尊敬する監督の新作がもう二度と観られないという哀しさ。2021年、この度のポレポレ東中野でのリバイバル上映にて、ついに彼は堀の最後の作品を見取った。ぼくにはこんな経験はほとんどない。まだない、ということだけなのかもしれないけれど。こういった親友の映る風景に折に触れて、ぼくは彼のように堀を愛せてはいなかったし、でも、彼と同じようにぼくも堀のことが好きだったと気付いた。彼と堀の映画を観てきたこの4年間の時間は、ぼくらが作ったものではない。堀監督が作った時間なのだ。とても羨ましい。誰が。偉大なる映画監督、堀禎一が。