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スリー・ビルボードのohassyのレビュー・感想・評価

スリー・ビルボード(2017年製作の映画)
3.7
「3つの看板」というタイトルと仕掛けのアイデアだけでもう面白そう。

広告というのは、いつもそこにある割にはあまり気にすることもないものだけれど、
使い方次第では目が離せないものに豹変する。
そんな例は歴史の中にたくさんあって、時に世界を変えるほどの力を見せてきた。

本作は、「いつまでたっても解決しない娘のレイプ殺害事件を早く解決しろ」という訴えを、誰も予想できない「看板広告」という形で起こしたところから始まるのだけれど、この看板がきっかけにとどまらず、終始物語に強烈な影響力を持つところが圧巻。
これがたとえばチラシだったり、SNSでの訴えだったり、あるいはテレビ番組への出演などでは、ここまでの影響力は発揮されないだろう。

理由は2つほど考えられる。
ひとつ目は、きっと普段安心しきっている相手に突然暴力を振るわれたような、畏れを伴った驚きを与えるからだろう。
まさか看板のような無害だと思っていたものが、突然牙を剥いて襲いかかってくるなんて。

しかもその影響は、直接訴えられた警察関係者のみにとどまらず、無関係なはずの住民にまでも及ぶ。
これは2つ目の理由にも関係するけれど、広告というものは我々が思っている以上に「公共性」があるということだ。
普段から嘘や誇張や都合の良いことばかり(と思っているはずの)広告を、実はどこか信頼もしてしまっている。
WEBはまだそこまでではないけれど、テレビやラジオ、新聞雑誌、そして看板広告などはその地位を確立していて、気づかぬうちに正しいことと思わせる力がある。
抗い難いほどに。

しかも看板というのはそこに存在する。
存在するという事実が、いつも心のどこかにえも言われぬプレッシャーをかけ続ける。
直接訴えかけられている警察関係者はもちろんのこと、関係のないはずの住民にも居心地の悪いストレスを与え続け、街にうっすらと陰を落とす。
看板に支配されるのだ。

この支配下で剥き出しになる人間模様は、実話かなと思ってしまうほど共感できないことばかり。
誰もが悪人であり、善人でもある。
つまりは社会そのもの。
フィクションは人の感情を動かすために作られているのでとても共感しやすいものだけれど、戦争や悲劇的な事件を思えば分かる通り、実話はそうはいかない。
理解のできないことばかり。
仕事や私生活で腹を立ててばかりの僕たちは、お互い簡単には理解できない世界に生きている。

それでも、物事は人を動かし、人は時に攻撃しあい、時に理解し合うこともある。

娘を失った母親のミルドレット。
看板により訴えられた警察署長。
警察署長を盲目的に慕う短気で無学な警察官。
3人が優れた脚本に身を委ね、主演を引き継ぎながら、緊張感と滑稽さがないまぜになった物語を紡ぐ。
(3人を演じた俳優たちは全員が賞をとったとしてもそれほど不思議じゃない。)

舞台出身の監督らしい仕掛けと映画的な作り。
イーストウッドみたいだと言ったら期待しすぎかな?
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