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オッペンハイマーのohassyのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.5
物語を時間で捉えようとしないノーランは、「ダンケルク」で3つの時間軸をひとつに束ね、「TENET」で巡行と逆行を映画のタイムラインに重ねてみせた。
そして本作はといえば、「核分裂」と名付けられた、1954年に4週間にわたって行われた「オッペンハイマー聴聞会」と、「核融合」と名付けられた、1959年の「ストローズ商務長官公聴会」という2つの法廷劇を構成の軸としつつ、いわば回想のような形でオッペンハイマーの半生と原子爆弾の開発が挿入される。
そしてさらに4つ目の時間軸として冒頭とラストで作品全体を包み込むのが、オッペンハイマーとストローズの対立の象徴として描かれる、1947年のアインシュタインの邂逅である。

この4つの時間軸を切り刻み、ごちゃ混ぜにして引き伸ばしたり圧縮したりして再構築しているのが本作だ。
きっと単純な伝記物を作るつもりはなかったであろうし、インタビューにもあるようにノーランの1番の興味は「地球が燃え尽きる可能性があるのになぜ事件を遂行してボタンを押したか」に肉薄することだったわけで、この作りがその瞬間を描くために一番良いと考えた、ということだろう。

これは僕の勝手な解釈だけれど、当然今の自分は自分の経験のもとに作られているのだけれど、今のこの瞬間の考えや感情を成り立たせているものは決して順序立てて説明できるものでもないし、全ての記憶が等しく同等に影響しているものでもない。
もっとグチャグチャとした混沌の中から引っ張り出した塊が、自分に行動を起こさせ言葉を発せさせる。
人生経験とは決してきれいに整然と積み上げられるものではなくて、本作の編集のように支離滅裂なのだ。

日本人としては実験や投下が成功して喜ぶ姿を心苦しく感じるかもしれないけれど、本作自体はその様子を決して「良かったこと」だと捉えていない。
どちらかといえば喜ぶアメリカ人たちの姿を見せることを通して、それが正しかったのかを今一度考えてはどうか?と言っているように僕には思える。
また、「戦争を早く終わらせて犠牲者をなるべく減らすために必要だった」というよくある言い訳としての解釈も、おそらく是としてはいないだろう。

研究者にとって原子爆弾の開発は垂涎のテーマだった、その手を止めることはできなかった、というのはその通りだと思うけれど、そういった感情は別に研究者に限ったことではない。
僕らにもしその能力と参加資格があれば、やっぱり嬉々として取り組んだはずだ。
立派な使命感と巨額の資金、自尊心は満たされ、成功することで大きな利益と名誉が得られる環境、加えて軍や時代の強制力の下に置かれては、今後あるかどうかも分からない犠牲のことまでは、実感もなければ想像も及ばず、気が付かないフリをすることは難しくなかっただろう。
遥か彼方まで続く障害物のない直線ではアクセル全開、ブレーキに足をかける人なんていない。
そして何よりこの研究開発には、ちゃんと締め切りがあった。
全ては用意されていたのだ。

苦労に苦労を重ねて出来上がって仕舞えば、完成したものがどこまですごいのか、本当に成功するのか、人は使ってみたくなる。
ごく自然な欲求だ。
劇中の要所要所で登場する地球が爆発に飲み込まれてしまう不安を抱えていたにもかかわらず、オッペンハイマーはトリニティ実験を実行する。
関係者たちも爆発の大きさがよく分からないまま、なんとなく9km地点だったり30km地点に伏せて爆発を見届けようとする。
もうみんな、使いたくて仕方がないのだ。
実験の成功は、彼らにとって人生のクライマックスだったに違いない。
本作は10件に及ぶまでの紆余曲折から、緊張、高揚、静寂、轟音、そして歓喜までを、サスペンスフルなエンターテイメントとして描き切る。

IMAXで観る必要はないかも、という声は少なからずありそうだ。
でも、たとえつまらない作品だって映画館で観ればまだ楽しめるように、映画は環境が良ければ良いほど楽しめるわけだから、チャンスがあるのならIMAXで観ればいいと思う。
せっかく大金をはたいて作ってくれたんだし、音響もすごい。
トリニティ実験の爆炎の迫力は天を衝くほど高く舞い上がり、その迫力は横長スクリーンでは得られないだろう。
終始主観で語られるオッペンハイマーの人生に寄り添い、彼の脳内に舞う原子たちの煌めきを我が事のように体感するには、それなりの大きさのスクリーンとそれに耐えられる高精細さがきっと必要だ。

そもそも第二次大戦と原爆投下は、アメリカが悪くて日本は悪くないという話でもない。
だって日本だって原子爆弾は開発していたわけで、玉砕攻撃をせざるを得ないほど瀕死の状態だった日本だったら、もし先に開発が成功していたらなんとか使おうとしただろう。
そうなっていたら今頃立場は逆転しているわけで、結局のところ争いごとに正しいも間違いもなくて、どうすれば正解なのかという答えもないのだろう。
映像の世紀バタフライエフェクト#53「マンハッタン計画 オッペンハイマーの栄光と罪」で、癌で亡くなる2年前、62歳のオッペンハイマーがインタビューで答えている。

「今になっても、あの時(原爆発明を選択した時)、(他に)もっとよい道があったと言える自信がありません」

僕たちは隣人同士、同僚同士で反目し合うことがある。
もしかしたらちょっとずつ嫌がらせをしあったり、力をもって相手を封じ込めようと、あるいは支配しようとしてしまうかもしれない。
ほとんどの争いの理由は「相手のことをそれほどよく知らないから」なのに。

現在最も強力な兵器の存在は、そういう根本的なことを考え、自分の生活を見つめ直すのに象徴的な題材と言えるのかもしれない。
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