ベルサイユ製麺

去年の冬、きみと別れのベルサイユ製麺のレビュー・感想・評価

去年の冬、きみと別れ(2018年製作の映画)
3.3
タイトルがほんのちょっとジョニー・トーぽいですね。『去年の冷たい冬に、華麗なる君と別かれ』とかにすると、可愛いラム・シューの姿まで浮かんできますよ!
有名なミステリーが原作なのだそうです。

気鋭のカメラマン・木原坂が、かつて自分の撮影現場で火災が起きた際に盲目の女性モデルを意図的に助けなかったのではないか?いや、それどころかその様を撮影し続けていたのではないのか?…という疑惑で拘留されたものの、結果的に木原坂は証拠不十分・執行猶予付きで釈放され、現在は仕事に復帰しております(←普通は仕事頼まないとは思う)。
当時、彼の疑惑を追ったマスメディアの多くが逆に名誉毀損で訴えられ、今はそのカメラマンについての取材は“ご法度“的な暗黙の了解がある中、ある出版社にフリーのルポライターが記事を持ち込みます。内容はあの撮影中の事故についてのもので、細やかな論旨構成と推論でカメラマンの故意による“事件”である、と結論づけるものでした。そしてこのライターは、存在が噂される“炎に包まれたモデルの写真”を入手する事を条件に、出版社の敏腕編集者の協力のもと、再度あの事件の真相に迫ることになります。

カメラマンに斎藤工=雨宮尊龍で悪人確定。
ライターに岩田剛典=コブラちゃん確定。
敏腕編集者に北村一輝=凄くHiGH&LOW 出てそうなのに出てない!
でも、いずれにせよ…
この作品、まずキャスティングに難があるような気がします。メインキャストが全員裏がありそうな顔つきなので、物語をフラットに観ることが出来ない。なので、観客は全てのキャラクターの“善人”と“悪党”のケースの想定を無意識にしてしまい、更にそこからフローチャートを作ってしまう。結果的に、話がどちらに進んでも、まあ想定内ね、となってしまう。
実際自分が観てても(勿論謎の種明かしなんて出来なかったけど)、「まあそういうことぐらいあるでしょうね」くらいにしか思えなかったわけです。
別の問題、大前提として、小説では成り立つリアリティと、映画・映像にした時のリアリティには大きな隔たりがあるのだと感じてしまいました。鑑賞中、後半の余りに荒唐無稽な展開に、もはや真相とかどうでもいいような気分だったのですが、コレが文章の上だときっと必要なパーツだけが脳内にスッと想起され、もっと飲み込みやすかったのでないかと思います。
多分、原作には「…耶雲は、物語前半のいかにもライター然としたくすんだ色目のモタくさいジャケットや縁眼鏡を付けず、サラッと流したヘアスタイル、丈の長いグラマラスなジャケットをたなびかせながらドヤ顔で言った。」とかは書いてないのだと思う。
あと、作中の表現を通して憎しみや執念は伝わってきたけど、愛情はうまく伝えきれていないのではないかなぁ?私の心が爛れているだけかね?

撮影は良いです。で、脚本は凄く邦画らしい。特に終盤の男女のやりとりとか…。
台詞が衝突せず、仲良く読み合わせる感じも凄く“邦画観てるゾ!”って気分になりました。劇伴が、分かりやすく不気味なメロディを奏でる感じとかは、コメディのつもりでないのなら致命的にダサいです。音圧で不吉さを表現するトレント・レズナーの仕事とか、最先端をちゃんと勉強しないと、それじゃあ!まるで!邦画の客を馬鹿にしてるみたいじゃないですか! …あ。

妄想。焼死体が蝶になって舞い上がれば、怪奇大作戦の1エピソードとしてはバッチリだと思います。奇譚調に寄せていくのが正解に思えるけどなぁ。
やっぱりリアリティ・ラインの設定ってめちゃくちゃ大事な訳で、いかに不自然でも一応辻褄さえ合ってれば、それは現実に起こり得る事なのだ!って態度は良くないと思います。さもなくば!まるで!邦画の客を!馬鹿にし… あ。

ここまで書いて、最初のモデルが盲目であった意味を今更考え出したのだけど、結局タケちゃんの『座頭市』のラストの台詞みたい事なのかな?…もし単にドラマを進める小道具としての設定なのだとしたら…その神経は相当なもんだと思います。

そして

斎藤工の声 is 良い

これこそが唯一の真理である。