アーロン・ソーキンってこれが初監督作品だったんですな。ちょいちょい名前を耳にするからてっきりベテラン監督かと思っていましたが。
何となく、編集のテンポがアダム・マッケイに通ずるものがある気がする。ただあちらのようにユーモアやアイロニーに彩られた笑いを含むような誘引はなくて、至って真面目なのだけれども。
「キャプテン・マーベル」と同じような題材ではありますけど、自叙伝がベースになっているだけあってかなーりリアリティがある。
どれだけ脚色されているのか分からないけど、アーロン・ソーキン的にはやっぱり父親の存在を主軸に据えたかったのだろう、というのはコスナーを配置しているあたりからもわかる。
ジェシカ・チャスティンって「ゼロ・ダーク・サーティ」といい、理不尽な状況とか非日常に適応せざるを得なくなった女性という役柄を当て込まれることが多いですな。
生命の危険と隣り合わせの「ゼロ~」に比べれば危険度で言えばまだ安全圏での話ですが、男性優位社会における彼女の振る舞いは、しかし徹底的に自分に責任を負う自立心を確立しなければならなかった悲哀がある。それを彼女自身は気づいていないのかもしれないところがまた。
まあ、そうやって自分を貫いたからこそのあの判決だったわけだけれど。
もう一つ、すでに触れたような父親の問題もここにはある。その視座は、「大いなる西部」の逆パターンと言えるでしょう。
親は子がいて初めて親になる。最低で不義理で不器用な糞親父ではあったけれど、確かに娘への愛情はあった。そして、彼女を追い込んだのは彼であっても、彼女が立ち上がるときにいたのもまた彼「ら」だった。
それは、ともすればDV的なマッチポンプにも見えるかもしれないけれど、果たしてスケート場での二人の無料セラピーを観てそこまで言い切れるのかどうかというと、他人の私には言い切れない。
ただ、アーロン・ソーキンはそこに親子の情を見出した。そこに賛否両論があってしかるべきだとは思うけれど、単純化されていない分、少なくとも誠実だとは思う。
ラストカットをどう解釈するか、という部分に関していえば、私はまあ「女性はスタート地点からして足を引っかけられるような軛がある」という、むしろラストに至って問題提起しているのではないかと思いまする。
そういうところも含めてアーロン・ソーキンはやっぱり誠実なのだと思います。