ナガノヤスユ記

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドのナガノヤスユ記のネタバレレビュー・内容・結末

4.2

このレビューはネタバレを含みます

1969年1月 ニクソン大統領就任
1969年8月 ウッドストック開催
1969年10月 ジャック・ケルアック死去
1969年12月 オルタモントの悲劇

ざっと羅列しただけでもなかなかの年ですね。1969年。

一見意味のない (物語上有機的に機能しない) 会話がダラダラと続けられることで、逆説的に物語の緊張が高まるっていう誰もが知るタランティーノマークがあると思うんですけど、今作ではそのトレードマークをほぼ封印。前作ヘイトフルエイトが逆にそこを突き詰めた傑作だったので、まあやりきったということなのかもしれない。

かつてヒッチコックは、キャラクターが知らない情報を観客だけに与えることでサスペンスが生まれると言ったけど、そういう意味で今作は誰しもが知る史実 (シャロン・テートの死) を利用することで、ほとんどそれとは気づかないような形で、終盤までのサスペンスを持続させたとも考えることができる。現実のイベントを (引用やパスティーシュではなく) ここまではっきりと利用するってのは9作目にして何気に新境地だとも思うのだけど、今作でタランティーノがやりたかったのはむしろ、活劇やサスペンスとしての面白さをやるのではなく、(それらの普通の面白さを大いに犠牲にしてでも) 、自分自身の記憶に残る1969年のハリウッドをフィルムに思う存分焼きつけるってことですよね。しかもそれが、別に映画史的な重要性や批評性とも関係なく、めちゃくちゃパーソナルな根拠に根ざして成立しているところが、いかにもタランティーノらしい。

インタビューでタランティーノは、マーゴット・ロビー演じるテートを象徴から解放したかったというようなことを言っていたけれども、そうはいってもタランティーノキャラクター的なロマンティックな表徴は今作でも随所に確認しないわけにはいかない。(カウンターカルチャーやヒッピーに対するタランティーノの距離感はよくわからないけど、少なくともロビー演じるテートと、マーガレット・クアリー演じるヒッピー娘は、彼女たちの足裏をもってはっきりと対置されてる)

TVの登場やヨーロッパから流入するアートフィルムの台頭、スタジオシステムが崩壊し、かつてのスターは消え、ベトナム戦争でアメリカが疲弊していくのに平行して、1930年代〜40年代にかけて黄金期を築いたと言われる映画の都ハリウッドがジワジワと容貌を変えていく1960年代。
そういう消えゆく旧ハリウッド世界の象徴がもちろん、ディカプリオとピット演じる2人の主人公であり、ヒッピーに占拠された (カウンターカルチャーに侵食された) スパーン映画牧場であるわけで。
ピット演じるクリフ・ブースとヒッピーたちが無言で対峙する中盤の構図よろしく、旧世界的ハリウッドとカウンターカルチャーの対決の構図ははっきり意識されてて、むしろ必要以上に強調されすぎているところが最早タランティーノの史実改変といっていいのかなと思います。

まあ多分タランティーノは本気で1969年ハリウッドを事実に基づいて活写する気なんかサラサラなくて、よくわからない争いが繰り広げられている最中を、笑顔を振りまきながらしれっと生き延びていく (史実とは異なる) シャロン・テートの姿に、何よりも共感しているということなんでしょう。
まさしく監督としての自分自身を重ねて、自分の作品を映画館で他の観客と一緒に楽しむ姿を写しているくらいだから。(映画館スタッフとテートのやり取りは多分実際に自分の体験をもとにしてるんじゃないのかな)
最初に書いたとおり、前作ヘイトフルエイトがあれだけ研ぎ澄まされた傑作然とした作品だったからこその今作の良い意味での力の抜け具合だったと思うし、9作目にして映画小僧としての原点回帰、しかも初期作的なしっかり脚本の面白さでウケてやろうという魂胆ともまったく違う、新境地だと思いました。
個人的にはこういう、歴史を扱いながらも別にそれについての責任はなんら負わないぜというタランティーノの奔放な無責任さは全然あり。

そして、まあ皆さん絶賛しているとおり、非常に掴みどころがなく、実はめちゃくちゃ不気味なクリフ・ブース役のブラピがかっこいいのは勿論なんですが、やはりタランティーノ映画のディカプリオは最高に輝いていると思う。
いろんなものを無意識のうちに背負いすぎてる今作のキャラクターたちの中にあって、そういうアイコニックな象徴性から真に解き放たれ、しっかりドラマチックだったのは、リック・ダルトンとあの聡明すぎる少女の邂逅シーン、あれがなければリック・ダルトンがポランスキー邸に招かれるラストの見え方もまるで違うものになってた、ほとんど根拠なしにそう言いたくなるくらい、あれは良かった。