パケ猫パケたん

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドのパケ猫パケたんのレビュー・感想・評価

4.1
かなりの長文になります。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)。1969年のハリウッドを舞台とした、if 世界の甘いお伽噺。その時、アメリカ映画界に於いては、アメリカン・ニューシネマが隆盛を極めていた筈。なお、アメリカン・ニューシネマとは、和製英語であり、アメリカ本国に於いては、ハリウッド・ルネッサンスまたは、ニュー・ハリウッドと呼ばれる映画の革命。

今までなら、ほぼ毎回毎回、タランティーノの映画は舌なめずりでもして、没頭して行きます。しかし、今回、この玩具箱をひっくり返しかのような、寓話の世界にのめり込めなかった。本能的に。その理由は、振り返ってみると2点ありました。

【 理由1 シャロン・テート殺人事件(1969年)が一個人に対する悲劇・事件であり、残酷すぎるため 】です。この事件によりアメリカ世論の潮流が、フラワー・チルドレン擁護の明るい景色から、180℃展開して、保守派への回帰という冷たい回廊へと移行したいう、文化史的な重要度は確かに在ります。しかし、事件自体が、新婚で妊娠中の女優に降りかかった、極めて不条理な悲劇であり、プライベートすぎる出来事なのです。娯楽映画の題材にするなよという素直な感慨がよぎります。また、倒される相手が小物過ぎます。タランティーノ監督の過去作品で登場した、国際的マフィアでも、ナチスでも、黒人差別でも在りません。狂ったチャールズ・マンソンの、しかもご本人ではなく、彼の手先の頭の軽い、犯罪のシロートの3人なのです。あんなへなちょこを倒してもカタルシスなど、起きにくいです。

【 理由2 1969年という、究めて映画史的に重要な年に対するアプローチの仕方 】です。
これは全くオイラの個人的な、タランティーノ監督に対するいちゃもんです❗
『俺たちに明日はない』(1967)、『卒業』(1967)、『イージー・ライダー』(1969)、『明日に向かって撃て!』(1969)、『真夜中のカーボーイ』(1969)、『フレンチ・コネクション』(1971)など、従来のハリウッド映画を改革した、アメリカン・ニューシネマの秀作の数々。1969年は特に豊作で記念すべき年でした。この時期・時代を舞台にして、架空の映画俳優が主人公のストーリーであるのに、全くアメリカン・ニューシネマがらみの話しが出てこない。B級ウェスタンや、B級アクションの描写に終始するタランティーノ。60年代の風景は完璧に描いているのだから、当時のアメリカン・ニューシネマが映画界に与えた衝撃とか、影響に触れて欲しかったです。

B級映画(ジャンル・ムービー)の範囲内で、その過去作品の中から、埋もれた傑作を拾い上げて、賛美して、謳いあげて、A級映画に仕立てあげるのが、タランティーノ監督の本領だから、敢えてアメリカン・ニューシネマについては言及しなかったのかな、とも考えられます。しかし、アメリカン・ニューシネマの作品群は、従来のウェルメイドなハリウッド映画に対するアンチテーゼとしては、A級なのであって、本来、低予算で粗い作りのB級映画なのです。
だから、アメリカン・ニューシネマを背景として、或いは映画内映画として描いても、タランティーノ監督のフィルム・グラフィーから逸脱しないのです。寧ろ魅力的になる筈です。

ところがそうしない。この点に疑問を持ちました。が、流石、天才監督🎥です。この文脈に於いて、極めて独創的で巧妙な技巧・トリックが込められていたのです。

そのトリックとは⁉️

魅力的な、マーゴット・ロビー扮する、シャロン・テートの登場シーンを思い出して下さい。その時の音楽です。名曲『サークル・ゲーム』です。爽やかな女性の声の高い音が響く、軽やかな音楽。
この曲は、映画『いちご白書』(1970)の主題歌としても有名です。

『いちご白書』はアメリカン・ニューシネマの佳作として、まずは有名です。ベトナム戦争の反戦運動をする、二人の大学生の恋人が、そこでは描かれます。ラストシーンは、デモの一員として大学の体育館に立て籠った恋人二人が、警察権力に「一方的な暴力」で、「引き裂かれて」、逮捕されます。『サークル・ゲーム』のその爽やかな歌声が、そのラスト・シーンで流れていて印象的でした。

だから、シャロン・テートの登場シーンには、その美を愛でると同時に、その裏側に流れる不可避なる悲劇を感じて下さい。「多幸感」ではなく、この映画は「二重構造」なのです。鑑賞後に『サークル・ゲーム』の意味するところを意識する事により、今まで観てきた、感じて来た「多幸感」が無に戻り、1969年に於いて描かれるべきアメリカン・ニューシネマがフォーカスされて来ます。いわば、この映画は、実はアメリカン・ニューシネマに対するメタ映画でもあるのです。

アメリカン・ニューシネマ或いは、ニュー・ハリウッド、これらのムーブメントに対する映画は、ドキュメンタリーはあっても、不思議な事に、劇映画はほとんど存在していません。ムーブメントが最終的にはハリウッドの体制側に収束したという後ろめたさが、原因のひとつでしょう。しかし、この時代のアメリカ映画のムーブメントは最もエキサイティングな、映画史の瞬間であり、劇映画にするには最適です。金脈です。タランティーノは「コロンブスの玉子」的に、何故、先輩の映画監督たちは、この時代を劇映画化しなかったのかと疑問を投げ掛けているように思えます。ハリウッド側も、安易にリメイクの凡作を作ってる場合ではないと思います。

では、何故、タランティーノ監督は、アメリカン・ニューシネマ、同じく、ハリウッド・ルネッサンスの映画を撮らなかったのか? 皆さんのご推察の通り、タランティーノ監督は生涯10本撮るとの宣言をしています。この作品の前に、彼は8本撮っています。ハリウッド・ルネッサンス運動を概括する劇映画を撮るとすれば、少なくとも3本分の分量になりますね、ワトソン君。タランティーノの予定する時間・体力を超えてしまいますね。だから、ハリウッド・ルネッサンスの時代にフォーカスを当てつつ、敢えてよりマイナーな、B級ウェスタン・B級アクションの世界を描いたのだと思います。

そして、アメリカン・ニューシネマに関する、劇映画の形としてのメタ映画(映画で描く映画)は、後進の来るべき天才映画監督に譲ったのだと思います。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド・ルネッサンス❗』(トリロジー、三部作)って観たくないですか、皆さん♪

せっかくだから、この映画の特に良かったところを3点挙げます。

【1】1960年代後半の、建物、小道具、風俗、明るい空気感が丹念に描かれていて、また、マックイーンやブルース・リーのソックリさんも楽しく、後進の映画監督たちの参考書にも成りうる事。

【2】B級ウェスタンの魅力が、いっぱい詰まっていた事。小津安次郎監督作品の魅力のひとつとして、「不在のショット」が挙げられますが、ウェスタンでも同じですね。安酒場内の「不在のショット」。そこには、砂ぼこりも舞っているので堪りません。

【3】マンソン牧場に於けるシークエンス。まず入り口からズラリと、若くて、少し綺麗で、汚なくて、怖いゾンビ🧟みたいな女たちがいて、背後には『サイコ』の実家みたいな不気味な建物が控えるという、怖さとユーモアの同居。B級の極みですね、これは。

【4】ラストシーンの夜間に於ける、俯瞰ぎみで、マーゴット・ロビーを捉えたカメラワークが美しい。移動撮影、今ではシンプルな技巧なのだが、ここでは、とてつもなく感動的なのである。映画の神さまが祝福している感じがするな、このシーン♪

さて、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を総評します。

上記3つの長所及び、『サークル・ゲーム』という曲の秀逸なインサートにより、画期的な映画であることは確実。ただし、上記【理由1】の問題は、オイラのココロには、やはり気後れするものがある。だから、八代亜紀さんではないが
♪憎い、恋しい、憎い、恋しい、巡り巡って今は?~、雨☔雨☔降れ降れもっと降れ♪的な、揺れ動く困った(>_<)状態が続いているのです。1969年の眩い光の中に。因みに、雨といえば『明日に向かって撃て!』の『雨に濡れても』も名曲でしたね。

そして、オイラのスコアは3.6から4.1に、日々右往左往しております。そして、0.1点のボーナス点はもちろん、シャロン・テートたんとマーゴット・ロビーたんに。そして、タランティーノのとてつもない、映画愛は感じました。以上です、キャップ🙋


駄文な長文ご清読、本当にありがとうございました💙💙💙

(終了、あとは推敲です。)

映画館鑑賞2回