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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドのsanbonのレビュー・感想・評価

4.3
映画の"可能性"と"素晴らしさ"を再認識させてくれる傑作。

今作の舞台である1969年当時のハリウッドは「ヒッピー文化」全盛の時代であり、それに反するように「西部劇」は「明日に向かって撃て!」等の名作をピークに、人気には陰りが見えはじめていた。

そして、西部劇で名を馳せた「リック・ダルトン」もそんな時代の流れには逆らえず、役者生命は最早風前の灯火であり、リックのダブルボディであり相棒の「クリフ・ブース」にも、満足な仕事を与えられず飼い殺しの状態が続いていた。

今作は、そんな映画の本場を舞台に"盈虚(えいきょ)"の本質を重ね合わせ、更には「御伽噺」の体裁をとる事によって、ある"奇跡"を描き出す事となる。

盈虚とは、"月の満ち欠け"や"繁栄と衰退"を意味する言葉なのだが、映画業界はメディアを介して提供されるコンテンツの中でも、ことさらその性質上その時代の"流行"に最も乗りにくい媒体と言える。

何故なら、超長期的に展開される漫画やアニメ、シーズンやイベントに応じて"流動的"に流行りがシフトしていく音楽とは違い、映画はたったの1作品2時間前後がその全てであり、しかもその1本に対する製作期間は数年単位にも及ぶ場合が常であるからだ。

そして、流行とはすなわち"短期的に人気を集める事"を意味しており、世間の"スタンダード"にはなれないという事なのだから、それには必ず最後が訪れてしまう事となり、その流行りの中で人気者になった者はその流行りと共に廃れる運命が待ち構えている。

今作でも、若手俳優の台頭やハリウッドでの西部劇人気の低迷により、リックは正に流行りに取り残される一歩手前であり、一時ハリウッドを離脱し「マカロニウエスタン」に出演する"延命措置"を受けるかどうかの決断を迫られる事になる。

そんな人気が下火のリックのお隣には、今をときめく人気急上昇中の監督「ロマン・ポランスキー」と、その妻の「シャロン・テート」が住んでいた。

同じ区画の隣人同士に、人気者のポランスキーと死に体のリックを同居させるアイデアは、ハリウッドとという明暗がハッキリと別れる厳しい世界の縮図を端的にあらわすには、非常に優れた舞台装置を担っていた。

そして、何故架空のリックを実在するポランスキー夫妻の隣に住まわせたのか、それは冒頭に述べたある奇跡を起こす為である。

リックとクリフは、映画に人生の全てを捧げたような生き様であったが、時代はそんな彼らでさえ無情にも見放そうとしている。

しかし、それでも映画しかない彼らの報われない日々を、コミカルかつ切実に描き出していくその様は、映画で繋がれた友情と映画に対する愛に溢れたとても素晴らしいものであるのだが、そこに輝きだけは感じられない。

そして、シャロン・テートといえば、映画史上最も悲惨とされる殺人事件の被害者である。

では、その映画史に残る最悪の悲劇がもしも起こらない世界線があったとしたら?

そして、その悲劇を終わりゆくだけだった者達が食い止める事が出来たのなら、今ある映画史はどうなっていたのだろうか?

今作では、そんな"if"を「昔むかしあるところに…」という御伽噺の常套句を用いて表現し、輝きを失いつつあるリックとクリフが、人生の絶頂から地獄に叩き落とされる運命だったシャロンを、ヒッピー集団の魔の手から予期せず救い出す事により、現実では叶わなかった"映画の未来"を切り拓こうとしているのだ。

そして、"衰えゆく西部劇"のスターが、"時代の象徴"であるがゆえに自我が肥大しカルト化した''ヒッピー集団"を駆逐するという対比と、更には役者として先の見えた"落ち目のスター"と、"将来有望な"前途ある気鋭の"スター"を対比的に描き出す事で、陰が陽に打ち勝ち、陰が陽を救済していく構図にさせているのも、単純だからこそダイレクトに胸が熱くなる演出であった。

他にも「クエンティン・タランティーノ」監督による、自作のセルフオマージュが随所に散りばめられていたり、シャロンとポランスキー以外にも実在の映画に関する著名人を絡めてきたりと、監督の映画愛が満遍なく感じてとれる構成には深い感銘を受けた。

ここまで"映画そのもの"に対する"愛"を純粋なまでに描き出した作品はそうそうなく、現実では起こり得なかったその奇跡が、最終的にはリック自身にも一縷の希望を与えて終わるラストには、映画の素晴らしさと可能性を存分に感じさせ、清々しくもとても余韻が深い感動を与えてくれた。
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