Kuuta

バーニング 劇場版のKuutaのネタバレレビュー・内容・結末

バーニング 劇場版(2018年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

幻想を信じるのではなく、現実を忘れる生き方をするヘミ(チョン・ジョンソ)は、幻想と現実の境界を失い、取り込まれて行く。幻想と戦おうとするジョンス(ユ・アイン)、幻想に生きるベン(スティーブン・ユァン)、ヘミの三角関係は、グレートギャツビーの聞き手ニック、謎の富豪ギャツビー、恋人デイジーの構成と同じ

(そもそも原作の「納屋を焼く」がギャツビーを意識して書かれている)

燃えているのに誰も気付かない存在=ビニールハウス=女性。早朝ジョンスが走り回る後方で何か燃えているように見えた瞬間があったが、気のせいだろうか?

井戸のエピソードは作り話かもしれないが、ヘミにとってジョンスが希望だった事は間違いない。そんなヘミをブス呼ばわりしたばかりに、彼女は整形に金を使い、自分を苦しめる。ジョンスは彼女の存在を「消していた」が、唐突な再会を果たす。それだけに、再び罵って別れてしまう展開は居た堪れない気持ちになった。

(元)童貞の田舎男が都会の金持ちへのルサンチマンを爆発させるベタな話でもある。

空港では付けていたピンクの時計を付けなくなるヘミが悲しい。ジョンスの生きる糧だったフォークナーをベンがお洒落なカフェで読んでいるシーンも、何かイラっとする。軽トラとポルシェ、パスタとラーメン、平屋の家と高層マンション(ヘミは中層アパート)等々、序盤はジョンスとベンの分かりやすい対比が続く。

北朝鮮に面した農村=文字通り資本主義の最果てであり、トランプからも見捨てられる、アフリカのような存在。就職難と閉塞感。物言わぬまま売られる牛と見えない猫。ヘミが店で踊る場面、暗がりに犬が隠れていた気がしたが…。ベンの玄関には犬の置物。

ヘミはジョンスという光を失い、資本主義の象徴のようなタワーが微かに反射する日光を頼りに暮らしていた。序盤のセックスシーンでは、壁に映る陽の光が弱まる過程をしつこく捉えていく。

アフリカのように赤い夕陽が沈む中、ヘミがフレームアウトすると、闇と静寂に包まれた北朝鮮の方角へカメラがパンする。この場面で流れる「死刑台のエレベーター」が村上春樹の文脈でどんな意味を持っているのかはよく分からないが、死に向かうノワールなんだな、とは思った。

ヘミが大麻で眠りに付き、夜の闇が増す中でジョンスはベンの語る世界に迷い込む。3人のうちベンだけは煙草を吸わないので彼は「燃やさない側」なのかと思いきや、実は大麻を吸っている。

ジョンスはヘミの事をよく知らない。ジョンスの幼馴染のヘミと、今作に出てくるヘミが同一人物という確証すらない。

メイク=完璧に相手の存在を操る事のできる料理。アフリカ帰りのヘミも、中国帰りの女性も、ベンも、それぞれジョンスと同様に「自分が語りたい物語」を持っているのが面白い。

ジョンスがベンに負けたら相当な鬱ストーリーだなと思って見ていたが…。空っぽのヘミの部屋で何かを書き始めるジョンス。書くテーマの見つからなかった男が、彼女の喪失が決定的になる事でようやくインスピレーションが湧いてくる。この流れは監督の前作「ポエトリー」も連想する。

私は、この場面で映画は終わっているのだと思った。実際、カメラが窓枠から引いて空撮になっていくので、本当に暗転してしまうのではとヒヤヒヤした。これ以降は、ベンがシリアルキラーなのかも、ヘミがどうなったのかも分からないまま、幻想に取り込まれたジョンスが創作した世界の描写が続くのではないか。

例えば次のシーンで今まで「見えなかった」猫が登場し、ボイルという呼びかけに反応する。ピンクの腕時計も見つける。こうしてジョンスはヘミ殺害への疑念を深めるが、この流れは如何にも「映画的」な伏線回収であり、ジョンスにとって都合の良い展開に思える。貧しい男が金持ちに復讐を果たす「衝撃のラスト」も、社会的なメッセージとしては酷く凡庸に感じたが、これこそがジョンスの語ろうとした世界だったのだろう。

(ちなみにピンクの腕時計はヘミの同僚も身につけている。実際の時計はベンの家にはなく、ヘミはジョンスに見切りをつけて時計を同僚に渡していた可能性もある)

監督の代表作「オアシス」では、脳性麻痺の彼女が突然自由に動き回る妄想シーンがあった。今作の終盤はこれと全く同じで、現実と地続きの虚構を映画的演出を使って再現しているのではないか。

ヘミはただ単に失踪や自殺をしただけで、この映画自体「オチのない」話だったのかもしれないが、イ・チャンドンはあえてそこにパントマイムのような形でフィクションを重ねている。資本主義や厭世観が人やビニールハウスを消し去る前半部とは真逆で、現実を消すのではなく、虚構を生み出している。

こうしたラストのアレンジは「人間が多義的で曖昧な世界を生きるには自分なりの解釈を加える事が必要」という考え=この映画を見る観客の姿勢そのものと重なる気もする。

延々と日常描写を積み重ねて主人公が味わっていた閉塞感を観客に追体験させ、最後の最後で鬱憤を爆発させる。この構成はエドワード・ヤンの「牯嶺街少年殺人事件」に近いかもしれない。

(別の見方として、ラストは一種のセックスであり、あまりに対照的だった2人が1つになる瞬間を描いているようにも見える。幼少期のジョンスが燃えるビニールハウスを見ている夢のシーンや、実際にハウスを燃やそうとする場面からも、両者には通じるものがあると示唆している)。

ジョンスは父親と同様に服を燃やす。結局父親と同じく資本主義に追い詰められて、暴力に走る。通りすがりのトラックは殺人に気づかない。ジョンスの顔は、汚れたガラスで見えない。車に絡む悲劇で幕を下ろすのは、グレートギャツビーのオチを意識しているのだろう。

犯人が誰かは重要ではなく、物語の在り方そのものがテーマを語っているので、「ミステリー」という括りには若干の疑問も覚えた。

原作から追加された韓国社会の描写が、映画独自のオチに繋がっている。「物事を解釈せずにありのままに見る」事を期待して、ベンは小説家のジョンスにビニールハウスを焼く事を打ち明けるが、ジョンスはそれを曲解していく。原作で新美南吉の物語を主人公が誤解して覚えているように。

日が沈んでいく焦燥感と都会への劣等感が暴走する話の割に、全体に淡々としたタッチなのがややこしい。基本プロットのシンプルさに対して、重層的なセリフと演出と、その国の「風俗」でコーティングした画面作りはどこか「万引き家族」も連想した。83点。
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