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こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話のsanbonのレビュー・感想・評価

3.6
「疑似家族」だからこそ意味がある、生きていくうえでの「ワガママ」とは一体なんなのかを問う作品。

「実話もの」である今作は「筋ジストロフィー」という難病に侵された「鹿野靖明」が、生涯を通して貫いた「夢」にまつわる物語である。

筋肉の異常により、身体の自由が徐々に失われていく病を抱えて生きる鹿野は、病院から20歳までの命と宣告されたにもかかわらず、実際には倍以上の42歳まで生きながらえた。

それは、病院の天井をただ眺めて"死んだように生きる"事を拒絶した鹿野の決断から起きた"ある副産物"と、そんな鹿野の"強い想い"に非常に献身的に尽くした「ボランティア」の働きの賜物に他ならなかった。

人間には、発達した思考能力により「プラシーボ効果」という不思議な現象が発動する事がある。

その「イメージの力」は、場合によっては"ただの栄養剤"ですら、難病にも打ち勝つ"特効薬"に変えてしまえる"ポテンシャル"を発揮する事もあるという。

それは、人が見せる"思い込み"という名の"生への渇望"が起こす「奇跡」そのものであり、それ程までに「思考」とは"生死"に対しての結末すらも大きく変えてしまえる"重大"なファクターなのである。

そして、下馬評を大きく覆した鹿野の人生においても、この現象は少なからず適用されていたのではないかと思った。

"常に目標がありいつでもポジティブシンキング"

これは「障害者の自立」という大きな夢を実行しながら生き続けた、鹿野靖明という人物像をあらわすのには最も適したイメージであり、そしてこれこそが十分にプラシーボ効果を引き起こし得るマインドだったからだ。

事実、人は"複雑"なようでいて突き抜けて"単純"な面も併せ持っている生き物だ。

なれば、鹿野のような「夢を忘れず未来を常に前向きに見据えた生き様」は、運命に逆らううえで無くてはならない大事な"武器"だったに違いない。

ただし、それを体現するにはある種"健常者"よりも「自由」な存在でなければならなかった。

それを成し得るにあたって、身体の自由が奪われた男が"深夜の2時にバナナが食べたくなる"事は、果たして横柄なワガママになってしまうのだろうか?

健常者であれば、いつ何時であろうと食べたいものを食べる行為が誰かの迷惑になる事はないし、ましてやワガママにもならない。

飲みたいものを何時飲もうが、どう寝返りを打とうが、どんなものをオカズに性欲を処理しようが、それら全ては健常者にとってはごく当たり前の事でしかなく、"自由"という概念すら想起させる事の無い"ただの日常的行為"でしかないのだ。

そして、鹿野の思い描く障害者の自立とは、全てを自分一人の力でこなし生きていく事を指している訳では決してなく、障害者でも自分の思ったとおりに夢を抱き、思ったとおりに生きていける世の中にする事を指している。

だからこそ、鹿野はそんな日常的な行為ごときで"不自由"など感じたくはなかったのだ。

そして、その意志は必然的に"他人に"無理を強いてしまう事になるのだが、それを誠心誠意支え続けたのがボランティアの存在だった。

しかし、あくまで慈善活動である筈のボランティアの中には"自分探し"が目的で参加する者も少なくないらしく、それは場合によっては自分探しという名の、ていのいい"イニシアチブ"の奪取が目的なのだという。

そんな"貢献"という"免罪符"を盾に、弱者に対してマウントをとっては優越感を感じたいだけの者がいたとすれば、鹿野が仕掛けたバナナのような"無茶振り"は、ふるいにかけるには相当効果的だったのかもしれない。

劇中でも、鹿野は"幸せ過ぎる"という理由で、活動を辞退する者が描かれている。

その言葉の裏には、障害者は"不幸そう"にして然るべきという思想が顔を覗かせており、彼は"そういう人間だけ"を求めているんだろうなと、何気ないがそんな"格差的差別"がありありと表現されている一幕は観ていて実に不快であった。

そうして、大勢の去っていく者達の中から、真に自分を慮ってくれる者達だけを選り抜き、鹿野は彼らに「ファミリー」を思い描くのだった。

本当の"家族"に対しては"ある理由"から突き放す言動をとってしまう鹿野は、まるでその罪滅ぼしをするかのように"ファミリー"に対しては遠慮など欠片もなく接する。

それは、ボランティアからすれば何物にも代え難い喜びとなり、鹿野からすれば「ワガママ」を貫き通す事こそが、彼らが他人ではなく自分のファミリーである事を、彼らに対して示せる唯一の方法だったのだと感じた。

そして、鹿野を慕うボランティア達にとっては、それが"心の糧"になっていたのだろう。

これは、なんとも不思議な"等価交換"の関係のように見えた。

時間や人生を鹿野に奪われてまでもワガママに応えて尽くし続けているボランティア達は、一見すると奴隷のようにも見えてくるのだが、その実鹿野の命を"全幅の信頼"の元で完全に預けられている"選ばれし者達"なのだ。

他人からそこまでの信頼を寄せられ委ねられた命の重みに比べれば、遠慮のないワガママなど取るに足らなかったであろうし、ましてやそれが"愛すべき人"なれば、"奉仕"こそが彼らにとっての"ギフト"にすらなっていたのかもしれない。

そんな、金では決して買うことの出来ない貴重な経験を、生きてる間中に体験出来る人間がどれだけいるのかを考えれば、その活動がどれほど意義を持つものだったかは想像に難くないだろう。

そして、出来ることならば鹿野の母親もそれを実感したかったに違いない。

だが、鹿野本人は"要らぬ負い目"を母親が感じて生きている事がどうしてもいたたまれなかったが故に、せめてもの自由を差し与えんと突き放すような真似をし続け、そして疑似家族の元で夢を諦めない姿を見せ続ける事を、せめてもの"親孝行"としていたのだと思う。

そんな、はたから見れば乱暴にも取られてしまいかねない歪な関係性は、歯に絹着せず何事にも妥協を許さなかった鹿野だったからこそ実現し得た、奇跡のバランスだったのかもしれない。

そして、そんな鹿野だったからこそ健常者ですら手に入れる事が難しい"夢"と"幸せ"を間違いなく手にいれる事が出来ていたし、かけがえのない存在を1秒たりとも傍らから離す事なく、その人生を大いに全うし得たのだと思った。

〜余談〜

それにしても、今作においても「古川琴音」の純朴そうな雰囲気は非常に心のオアシス的な存在であった。

どうやら、モデルの「チバユカ」といい、独特な顔立ちが今の僕のトレンドになっているようだ。

は〜、きゃわたんきゃわたん。
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