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フォルトゥナの瞳のsanbonのレビュー・感想・評価

フォルトゥナの瞳(2019年製作の映画)
3.5
久々にここまで"生真面目"に作られた映画を観たような気がした。

20年前、飛行機事故から生還した「木山慎一郎」は、ある日突然"死期が迫った人が透けて見える"特殊な能力が自分にある事を知り、困惑しながらも"人助け"に役立つのではないかと思案する。

この作品を見終えた後、一番はじめに思い浮かんだ言葉は「丁寧」という一言だった。

冒頭、主人公の置かれた境遇から人となり、現在の生活環境までを言葉ではなくしっかりと場面として説明し、恋人となる「葵」との出会いから交際への発展、それからの時間の移ろいまでをもこれでもかと丁寧に、誰が観ても分かりやすく展開してくれており、まず初めの30分でとても心地よい感覚に捉われる。

また、登場する人物やストーリーも、"必要最低限"の中で進行していくので、あっちこっちに話が飛躍する事がまずない為、道筋を見失う事なく見進める事が出来るのも好印象だった。

そのようにして、今作は最後の最後まで生真面目で丁寧な姿勢を貫き通し、仕事をやりきるのだ。

おかげで、整合性は一貫してとれていたし、観ていて不明瞭な部分は"ある一点"を除いてだがほぼないし、ラストに至るまでしっかりと腑に落ちる展開が描かれており、ストレスフリーで"自己犠牲"の物語を堪能させてくれる職人っぷりには概ね好感が持てた。

ただし、この徹底された丁寧さは、今作の"優れた点"であると同時に最大の"欠点"でもあった。

単純に言ってしまえば、丁寧さが仇となりこの映画の"肝"である筈の"驚き"が、全く以って提供出来なくなってしまっていたのだ。

この"喪失"は、映画の"本質"すらも"損なっている"と言っても過言ではない事態である。

何故なら、ほとんどの人が映画を観る一番の理由は、
"知的好奇心"を刺激し、"成長欲求"を満たす事にあるからだ。

僕自身も、知らない世界やありえない世界に視覚や聴覚で浸り、自分の中の"未知"だった部分の見識が広がっていく感覚に喜びを感じられる所が、映画の良いところだと思っている。

だからこそ「予想外の結末」に惹かれ「感動のラスト」にまんまとおびき寄せられる訳だ。

そして、昨今の評価基準の大半はその"謳い文句"が、自分の予想を超えてきたかどうかで別たれるようになってきた。

最近よく「映像は良かったけど展開は読めた」などという理由で、映像では"優れていた事を度外視"して内容面だけに"論点を絞って"低評価を下したような感想を多く目にするようになったのも、映画に求めているものがそれだけ"自己の成長に貢献出来たかどうか"という点に偏っている証であろう。

だからこそ、映画を作るにあたって"過保護"さはかえって命取りになってしまう事を、この作品に関しては特に痛感した。

今作は、内容も悪くないし、映像も分かりやすく、展開も丁寧でとても優れている。

ただし、驚きという名の刺激に関しては圧倒的に足りていない。

逆を言えば、足らないのはたったそれだけなのだ。

例えるなら、逐一「今起きてるのはこういう事で〜…」と、ガイダンスに則って進めてくれているような"安心感"というか「この展開はラストの伏線だよー」と、声なき声が何処からか聞こえてくるような、"地に足が着きすぎた"展開の仕方を一貫して見せており、この"温室感"が視聴者をただの"傍観者"にしてしまっていると感じた。

冒頭にも書いたが、こんな感覚になるのは本当に久しぶりの事であり、良い点と悪い点が"表裏一体"に感じるというとても不思議な感覚を味わえる"ある意味貴重"な作品ではある。

ただ、自分の認知出来得るよう"仕立てあげられた"映画というのは、退屈とまでは言わないが、やはりどこか満たされない感覚が拭えず、そのたった一つの"不足"がスコアに多大な影響を及ぼしてしまった事は間違いない。

決して悪くはないのに良くもないという、絶妙過ぎる程に残念な作品だった。

最後に、慎一郎が飛行機事故で誰も救えなかったと思っている理由については唯一辻褄が合っていなかったのだが、これはどういう事だったのだろう。
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