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愛がなんだのsanbonのレビュー・感想・評価

愛がなんだ(2018年製作の映画)
3.5
僕にとっては"蚊帳の外"の話。

はじめから分かっていた事だが、本作の登場人物と僕とでは、人種として全く別の生き物である事を改めて痛感する事となり、よって当然共感性もゼロであった。

まず、本作の主題でもある「恋人未満の都合の良い関係」が成立する意味が分からない。

昔なら「アッシー」やら「メッシー」と呼ばれるいわゆる"パシリ"行為が横行していたり「セフレ」なんてものが存在するのもそうだが、そんな関係を良しとする人がいる事がまず理解出来ない。

僕の感覚としては、互いに相手の事が「好き」という大前提があって、そういう人だから一緒にいたいと思えるし、SEXをしたいという欲求も湧いてくるのが当たり前である為、どれだけ好きな相手でも自分が弄ばれてると感じた瞬間に普通は冷めたりするもんだし、ましてや好きでもない相手と肉体的にも精神的にも深く関わり合える人達の気が知れないのだ。

また、僕は酒の力を借りた"フリ"をした事ならあるが、本気で失敗するまで羽目を外した事がない為、そういう"不可抗力"も経験がないので尚更だった。

それを踏まえて「マモちゃん」が最後に「テルコ」にもう会わないほうがいいと伝えてきた理由が、テルコの友人である「葉子」に今の二人の関係はおかしいと糾弾された事がキッカケだというシーンには正直ゾッとした。

それは、マモちゃん自身は葉子からそれを言われるまで、二人の関係性の歪さに微塵も違和感や疑問を感じていなかったという事であり、はたから見れば明らかに恋人同然の関係を、よくそんなつもりもなく行えてしまえるその神経を疑うし、マモちゃんは明確にハッキリとテルコとは別の女性に恋をしているのに、平気でテルコとの肉体関係も継続しているとか、いやマジで理解不能である。

まあ僕の場合は、根本的に誰に対しても簡単に心を許せない性格をしているせいか、気心知れた関係でない相手と突発的に親密な状態になると、馴れ合ってる自分になんだか気持ち悪さを感じてしまう特殊な性質を持ってたりするのも原因なのだが、だからこそ仲を深めたいと思える人はかなり限定されるし、ましてやそういうお店でも無い限り少なからずSEXしたいと思う相手は好意を寄せる相手に限る。

テルコも好きで、そのうえで別の女性も好きになってしまったというならまだ理解の範疇なのだが、マモちゃんの反応や言い分を聞く限りは完全にそういう訳でもなく、なんかこの映画のそういう"感覚的不一致"がめちゃくちゃ気持ち悪く感じてしまったのは否めないところだ。

勿論僕の場合は、そもそもがそういう"不埒"な関係を築ける人達とは違って、ほっといても異性から簡単に好意を持たれるような容姿はしていないから、なりゆきでなんとなく始められる恋など一度たりとも経験した事がないし、相手の事を四六時中考えに考えて誠心誠意のアプローチをしてようやく振り向いてもらえるようなレベルである為、マモちゃんのように好きな人以外と浮ついた関係を続けながら、意中の相手もなんとかしようなどというキャパシティは当然無いし、割けるリソースもはなから持ち合わせてなどいないのだけれども。

だが、今の日本を見ているとやはり需要があるのは、マモちゃんのような良くも悪くもフランクな男である事は間違いないのだろう。

飄々としていられる男とはどこか"余裕"な雰囲気が漂っている。

そう、女性が口を揃えて好きだと言うあの"余裕がある男"だ。

だが、その余裕はどこからくるかを考えると、答えはこの映画のテルコに辿り着く。

では、何故テルコの様な女性は存在してしまうのか。

昭和までの日本であれば、男が稼ぎ女が家を守るという考えが国家として下地にあったから、恋愛感情以前に"家庭を持つ"という事はそこまで難しくなかったように思うが、現代に至っては当時に比べ男女間の関係性はまるっきり変貌を遂げてしまったと言える。

それは、女性が「自立」したからだ。

「関白宣言」など過去の遺産になって久しい昨今、女性でも普通に働き普通に暮らせる社会が何十年にも渡り長らく"常態化"した事により、前時代の様に働き手を担う存在で、生活の為に必要とされた男性像は、最早女性にとって生きていくうえでは無用の長物と成り果てた。

それは女性にとっては勿論の事、社会的にもダイバーシティな発展を遂げている証でもある為、非常に喜ばしい事ではあるが、恋愛ひいては少子化問題においては憂き目を見る男性は格段に増えたと言える。

何故なら、色恋でアプローチを仕掛けるのはまず男性からという考え方"だけ"は何故だか微塵も変わる事がなく、これにより需要と供給のバランスは完全に崩壊する事となり、"不採算案件"ばかりが溢れかえる世の中になってしまったからである。

そして様々なメディアの普及により「見識」が広まったのもかなり大きい。

世界中のありとあらゆる情報がタイムリーに享受出来るようになった事で、異性に対する"審美眼"も相当に磨き上げられ、求めるハードルは青天井と化してしまった事により、下限は底上げされ求める普通すら今や高水準、高望みをする事は最早当たり前となった。

そこに、"超格差社会"が誕生してしまった今の日本において「経済の悪化」が更なる追い討ちをかける。

"他人"を養う程の余力を持つ若者がめっきり減ってしまった現代では、誰かと繋がる為の"必要経費"すらまともに捻出出来ず、そもそもの行動にすら移せないという人も大多数で存在するようになってしまったのだ。

このように、生活するうえでの男は必要とされなくなり、美意識も飛躍的に高まったうえで、"資金力"というある種の"男性的魅力だったもの"も失われてしまった現代において、大多数の男性は自然淘汰されるような仕組みが出来上がる事となり、女性に需要がある一握りの"特権階級"のみに人気が集約される訳だから、男性側から見れば"擬似的一夫多妻制"のような状態が出来上がり"図に乗る"のは必然であり、女性側から見れば複数いる候補の一人なのだから彼のペースに合わせる他はなく、都合の良い関係が生まれてしまう由縁にもなっているのではないかと考えられる。

ちなみに、今作では都合の良い男も登場しはするが、こちらは最終的に男から見切りを付けて離れたのを女が追う構図に落ち着くから、やはり男女としての関係性は一貫しているところがあると思う。

まあ、見方を変えれば不幸な恋愛も社会にこそ原因があるとも言えなくはないが、それでもマモちゃんや葉子のような奴等はどんな理由があろうとどんな脚色をされようと"サイテー"である事に変わりはないと言える。

ただ、それでも人を好きになる事自体には、なんの罪も負い目も感じる必要もない、そんな普遍性だけは変わらないで欲しいと願うばかりだ。