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THE GUILTY/ギルティのokomeのネタバレレビュー・内容・結末

THE GUILTY/ギルティ(2018年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

「僕が殺した理由は、〝殺せたから〟」


ちょっと予告編詐欺じゃない?
「犯人は音の中に潜んでいる」なんて煽り方をされていたから、てっきり限定的な条件の中で「誰が犯人なのか」、もしくは「誰が嘘をついているのか」を主人公と一緒に推理する体感アトラクション型の映画だと思っていました。

冒頭から30分くらいまでの自分の期待感は最高潮でした。何せ、このアスガーという主人公がものすごく有能だったから。
事件が発生する前段階、コールセンターの日常風景からでも伺えるアスガーの切れ者っぷり。
電話口から聞こえる周囲の音、相手の声色やちょっとしたキーワードから的確に状況を把握していく手腕は見事の一言でした。

ただ、あくまで自分はこの時点では彼を一人の人間としては見なしていません。彼の行った事はこれから始まる本題へのデモンストレーションであり、
ひいては観客が今作で行わなければならない推理推測、その方法の説明だと思っていたからです。
アスガーは上映中に自分が憑依するべきアバター、もしくは肩を並べて行動を共にする協力者という立ち位置だと認識していました。


そして待ちに待った(不謹慎)、誘拐事件の発生!
よしアスガー、準備はいいか!
はりきって謎解きに挑もうじゃないか!

……
しかし、アスガーの様子がどうもおかしい。
何だかこちらの意図通りに動いてくれない。
初めの内こそデモンストレーション通りに冷静に状況分析に努めていたのですが、次第に「それはダメだろ!」という行動がどんどん増えていくのです。
パトカーの要請を遮って心情を伝えようとしたり、明らかに立場を超えた要望を上司に訴えたり、
挙句の果てには独断で誘拐犯に直接電話をかけてしまったり……。
そして、仄めかされる彼自身の過去。
どうやら彼は何かしらの罪を犯していて、その裁判を翌日に控えているらしい。
……あ、この映画もしかして、体感アトラクションでは無くて、俯瞰して主人公の行動を追う、れっきとした「物語を楽しむ」作品なのでは?
そう気付いた時には、映画はもう後半に差し掛かっていました。


そんな感じで鑑賞姿勢の方向転換に右往左往してしまったわけですが、(日本版の予告編がその勘違いを無駄に助長している向きはあるにしろ)これは半ば意図的に仕組まれていたようにも感じます。
「アスガー=観客ではない」そう気付かせて、改めてこれまでの彼の行動を反芻させる。これを「上手い」と思うか、「物足りない」と思うかでこの作品の評価は分かれるでしょう。
自分は残念ながら後者でした。
「正当防衛に見せかけて人を殺した」という彼の罪がイマイチ飲み込み難かったのがその理由です。
殺せるタイミングでその手段を偶然持っていた、
京極夏彦風に言えば「魔が差した」状況がどう言うものだったのか、一切判らないので是非を問われても困惑してしまう。
ただ、作中で誘拐事件が発生してからの彼の行動に関しては、その過去がずっと影響を及ぼしていた事は理解出来ます。

初めの内は、「明日から現場復帰出来る」事に気持ちが向いていて、意地悪な言い方をすればリハビリ感覚で事件に関わったのでしょう。
それが次第にムキになって無茶な捜査をし始めるのは、潜在的にあった罪の意識に対して、「何か良い事をして相殺したい」という気持ちの顕れ。
そして、事件の真相に触れて「今回も自分は加害者だった」という事実を突きつけられて、それでも不可抗力だったという逃げ道に縋る。
しかし、本物の「悪意のない加害者」という存在を知る事で、遂には自分の罪を認めるに至るのです。

照明の落ちたオペレーションルーム、そしてずっと共にあった電話という声だけの存在。
これらは、アスガーに罪の告白をさせる為の懺悔室という暗喩だったのだろうと思います。
そして、それを聞くのは観客の役目。……という事はやっぱり、この作品は体感型アトラクションでもあるのでしょう。全貌を知らされずに、ただ断片的な事実だけを聞かされて、「許しましょう」と十字を切らざるを得ない重圧、もしくは無責任さを味わえる特権を託されたわけですから。


VRや4DXが全盛の現代に於いて、音だけで映像を伝える構成、そして時間的な「間」や小道具の使い方など、とんでもなく上手い作品である事は間違いありません。
でも、個人的には前述の方向転換やこの結末も含めて、楽しい・面白いよりもまず「疲れた」という感想が先立つ作品でした。


まったく、難儀だったよ京極堂。
一体、僕は何に翻弄されていたんだろうね?

「今回の憑き物は蛇さ。濡女……『濡女の聲』だ」
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