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黙ってピアノを弾いてくれのumisodachiのレビュー・感想・評価

黙ってピアノを弾いてくれ(2018年製作の映画)
4.0
チリー・ゴンザレスをご存じだろうか?カナダ人のピアニストであり作曲家であり、大富豪の御曹司であり、ラッパーであり、破天荒極まりないキャラクターのアーティストだ。その彼を描いたドキュメンタリー。

数年前にチリー・ゴンザレスにハマったことがある。いくら考えても全くきっかけが思い出せないのだが、かなりハマって『SOLO PIANO』というアルバムを繰り返し聴いた。そして、本当に偶然なのだが、ハマった時期にちょうど来日公演が決まったので観に行った。そのときは「知る人ぞ知る」という感じだったし、初来日だということもよく分かっていなかったのだが、その後の来日公演は2回に渡って直前キャンセルとなったようなので、どうやらあれはかなり貴重な体験だったようだ。

映画館の予告でこの作品のことを知った時、数年前の記憶が溢れるように蘇ってきた。あのコンサートは震災前のことで、あれから私の人生は大きく変わった。だから、すっかり忘れていたのだ。チリー・ゴンザレスを聴きまくっていたあのときの気持ちを。予告編によって過去の自分が噴水のように溢れてきたことで、この作品は何としてでも観ないといけないと思った。上映館も上映回数も限られていたが、何とか京都で観ることができた。

私は彼について、個性的なピアニストだと思っていた。しかし、本作を観てその認識は限られたものだったということを知った。小さい頃から作曲をするようになり、青年期にバンドを組んでベルリンに渡った彼は、前衛的なヒップホップに熱中する。そして、破天荒なキャラクターとパフォーマンスでどんどん有名になっていく。やがて、突然憑き物が落ちるように繊細なピアノソロを発表し、世界的な評価を得る。ただ時系列で並べただけでも面白いチリー・ゴンザレスの人生を、インタビュー、実際の映像、再現映像をごちゃまぜにして描いていく。

チリー・ゴンザレスは、「自分は何者なのか」という概念を度々口にする。「アウトサイダー」「ベルリンにやってきたユダヤ人」「天才」……あくまでも自らの内に沸き上がってくるものを表現しながらも、常に自分のことを客観視する。いや、むしろ意識的に「何者か」を演じながら生きているとさえいえるだろう。彼にとって、「何者であるか」を意識すること=「何者であるか」を演じながら生きることなのだ、たぶん。強烈な個性と才能。そして、尋常ではないレベルの醒めた視点。そんな彼だからこそ、自分の技術的な拙さと、クラシックの基礎を勉強し直す必要性に気付くことができるし、名だたるアーティストたちと見事なコラボレーションを実現させることができるのだ。ハチャメチャだが、クレバー。でも、ドキュメンタリーを観終わった今も、素の彼がどのような人物なのかはさっぱり分からない。実は、常識的なおぼっちゃんキャラなのかもしれない。スクリーンに映る彼は常に「チリー・ゴンザレス」であり、本名の「ジェイソン・ベック」の姿が透けて見えることはない。ああ、なんて興味深くて魅力的な人物なのだろう!

後半では、ダフト・パンクやウィーン放送交響楽団とのコラボ映像なども組み込まれ、ますます目が離せなくなる。なんだろう?ヒップホップだろうがクラシカルなピアノソロだろうが、チリー・ゴンザレスのパフォーマンスは”アガる"のだ。数年前にハマったときもこんな感覚だった。ひとたび音色を聴いたら、一瞬で恋に落ちるように吸い込まれてしまう。体験したことはないが、ハイになるってこんな感じなのかしら?と思うほど、脳内に興奮物質が充満するのだ。映画館を後にしたときには、すっかりリフレッシュした気持ちになった。ああ、観に行って良かった。『Shut Up and Play the Piano』という原題を「黙ってピアノを弾いてくれ」と訳したセンスも最高。この作品を配給した人たちとゴハンでも食べながら語り合いたい。そんなに詳しいことは話せないけれど、ゴキゲンな時間が過ごせる気がする。

悪いことは言わないので、チリー・ゴンザレスを知らない人は一度聴いてみてほしい。また、機会があれば本作を観てほしい。音楽やアートってこんなに自由なんだ!ってきっと思えるから。

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