しおえもんGoGo

楽園のしおえもんGoGoのレビュー・感想・評価

楽園(2019年製作の映画)
2.7
原作既読。

原作を読んでるせいもあると思うけど、二つの全く別の事件の話を「田舎の閉鎖性」とか「同調圧力」という共通項で無理やり一つにしたせいで変なことになっている。要らん事したなーという印象。
楽園とは何かというテーマも、言いたいことは分からなくもないがハマってない。

以下ネタバレ全開の文句


まず「限界集落で起きた二つの事件」みたいな説明がされるけど、愛華ちゃん事件の方は全然限界集落じゃないだろう。日本中にごまんとある地方都市やそのちょっと郊外の方だと思う。もちろん田舎の閉鎖性はあるけど、限界集落の問題とはまた全然違うはず。

また全体を通じて余計なシーンがあるのに、肝心なところが圧倒的に説明不足に感じる。

最大の失敗は紡を前面に出して二つの事件のつなぎ手としたり、楽園の希望面を背負わせている事だと思う。元々彼女は原作では大きな役割は無く、豪士との絡みも一切ないのだが、やっぱり高齢者だらけの絵面では集客が見込めないからだろうか。

まず、豪士や善次郎を苦しめた閉鎖性と、紡の感じる辛さは全く質が違う。善次郎は思い切ってあの土地を離れれば解決しただろうし、豪士も国籍差別やコミュ障からくる挙動不審での偏見はあるだろうが、外国人の多い町や近隣関係が希薄な街なら多少はマシになっていただろう。
でも紡の辛さは彼女の内側にある。道の左右が違っただけで自分だけ生き残ったサバイバーズギルト、彼女の誘いを断って一人で帰らせたこと、仲直りしようとした愛華を拒絶した悲しい顔が最後の姿で、謝る機会を永遠に失っている事。その罪悪感と後悔が彼女の辛さであり、例え都会に住んでも緩和されるものでは無い。遠因としてみんな顔見知りの田舎だから余計辛いだろうが、彼女が地元を出たいのは「田舎の閉鎖性」が原因ではなく、事件を思い出すと罪悪感が刺激されるからだ。彼女につらく当たる柄本明も彼女に対しての態度はあくまでも孫を失った祖父の怒りからであって、田舎の閉鎖性は関係がない。都会だろうと同じことになっただろう。

彼女と豪士のベクトルが全然違うのに共鳴し合う要素があまりないのだ。「ここにいるのが辛い」同士だったとしても、二人が心を寄せるきっかけがない。
街灯も人通りも無い夜道で、背後から急にスピードを上げて接近してきたバンに乗っているのが例え綾野剛の顔面を持った男だったとしても、大人しく車に乗る女が居たら見てみたいものだ。
100歩譲って転倒して足が痛かったからだとしても、翌日片道2時間はかかるであろう道中(7時集合で店は9時開店と仮定して予想)を二人っきりで車に乗った上に16000円の品を買わせて借りを作る女が居たら小一時間は危機感の無さを説教したい。
このシチュエーションが成立するためには紡が以前から豪士と知り合いで、周囲には偏見を持たれているが実は優しい人だと思っていなければならないが、そんな描写は無い。唯一「中学の時に買った小銭入れ」を見せて、数年前に豪士から買ったのだろうと示唆するだけだ。それだけの縁で車にホイホイ乗る程の信頼は生まれない。描こうよ、そこを。

さらに紡の幼馴染の広呂。これも監督はどういう人物像として描いているのだろうか。ベタベタと付きまとい、自転車をパンクさせ、強引にキスを迫り、ついには後を追って上京して同じ職場に勤めはじめる。ガチ目のストーカーやん。むしろ同じ地元だからといつまでも絡みついてくる広呂こそが田舎の閉鎖性の権化じゃないのか。終始テンションの低い紡がどう見ても本気で嫌がっているので、ツンデレや照れ隠しには見えない。
彼の「俺たちのために楽園をつくれ」も大事なセリフのように終盤に回されているが非常に不自然。なぜ「一緒につくろう」じゃないのか。彼はあの時点では自分の病気の事を知らないのではないか(ここも時系列が不明で説明不足)。地元(罪悪感)に捕らわれずに広い世界に出て幸せになれ!ということなら、彼が紡の苦しみを理解している描写が無ければならないがそれも無い。ただ自分勝手に付きまとってるだけだ。
だいたい「俺たちのために作れ」の「俺たち」って誰よ。紡と広呂のことならこの二人に「俺たち」の関係性は見えてこないし、「あの町に住む俺たち」なら市会議員にでもなれってか。彼が言う「楽園」って何なの?善次郎や豪士が楽園を目指したがそうでは無かったのは分かるが、広呂の楽園の意味が分からない。

12年後の二回目の少女誘拐事件が冤罪であったという事もセリフでサラーっと流すだけじゃなくちゃんと見せないとダメでしょう。非常に大事なポイントなのだから。その場の熱狂が冷めた一団の顔とか。豪士が今回の犯人じゃないけど愛華の件はあいつに違いないと言い張る柄本明とか。

さらにあのラスト。原作でも結局豪士が犯人なんかい!とずっこけた記憶があるが、愛華と豪士がやり取りしたシーンは描写されるだけで、それがあった事は誰も知らないことになっている。でも映画では紡は豪士が犯人の可能性が高いと悟ったから愛華と豪士のシーンを想像したように見える。じゃあ紡が柄本明に向けた怒りは何だったんだ。「みんながあの人を殺した!」と怒るのは、豪士が犯人じゃないと信じているから出てくるセリフではないか。
彼女がぶつける怒りは既に罪悪感を感じて幸せにもなれない自分をいつまでも理不尽にネチネチと責め続ける事に対してであってほしかった。杉咲花のブチギレ演技で「私に言うな!」とガチギレして欲しかった。

さらに街中で愛華のような女の子を見かけたあの描写も何の意味があったのだろう。紡が、愛華は実は生きていて幸せに暮らしてるんだ、と思い込むことで罪悪感から解放されようと思ったみたいなこと?でもあの時点では彼女はまだ罪悪感に捕らわれてる時期のはず。彼女が全部抱えて生きてやると決意するのは善次郎事件がきっかけのはずだ。
じゃあ「もし愛華が生きていたらあんな風になってたのかな」だろうか。それはそれで罪悪感を上乗せされるだけだし、わざわざラストにそんな苦いシーンを持ってくる必要はない。
それとも実は愛華は生きていたかもしれないという含みを持たせて視聴者に考察させようとしたのか。もしそうならそれは全く要らない要素だと思う。
彼女を見る紡の表情からは何も分からない。

一方の善次郎パートは良かったと思う。
私の義実家があそこまでではないがまあまあの田舎だったので、あの空気感は少しは分かる。私も結婚した頃に義実家で親戚が集まったら女は台所で男は飲み食いだった。義両親も「〇〇がこんなに早くからどこに出かけるんだろう」とか「今日は△△の所は車が停まってるから息子が帰ってきてるな」などと窓から見ながら言っていたし、「あそこの家のお嫁さんは結納金300万だった」等も知っている。監視してるという意識は全くないが、ナチュラルに近所のおうちに関心を向けている感じ。
お墓に落書きは田舎の人はやらないと思うけど。

原作に久子が居た記憶はないが、善次郎パートはまだ一つの話として完結しているのでいいと思う。ただ、温泉シーンとか、車の中でスマホを落として住民に誤解されるシーンとか、変な生々しさは必要無い気がするし、あの環境では久子の方も「近づいちゃだめ」では済んでないと思う。


二つの独立した事件を一つにしたかったのなら、つなぎ手は柄本明だった方が良かったのではないだろうか。
彼は同調圧力に乗って豪士を追い詰める側に立ち、結果豪士が死んでも共同体(楽園)と自分の気持ちを収めるためにそれでいいと思っていた。でも善次郎パートでは老人たちが自分と同じことをするのを外から見る立場だった。その結果大量殺人が起き、楽園を守るためにやっていたことが逆に集落を崩壊させ、それほど相手を追い詰める事をしていた事(自分に跳ね返ってきたかもしれないこと)を見てその恐ろしさに崩れ落ちるという話なら良かったのではないかと思った。

なんか書いてるうちにどんどん文句が湧いてきてめちゃくちゃ長くなってしまったが、役者の演技や、閉塞した空気感の描写、陰湿でドンヨリした感触は良かっただけに残念だ。
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