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ジョーカーのohassyのレビュー・感想・評価

ジョーカー(2019年製作の映画)
5.0
「ジョーカー/JOKER」

これほどあらゆる面でパワフルな映画は、そうあるものではないだろう。

人気アメコミ作品待望の新作が、ドキュメンタリーからコメディまでを手がける現在最も求められている映画監督の手により、まるでジョーカーを地で行くような人生を送ってきた俳優を通して語られる。
そのどれもが欠けることができない、3本の道が唯一交差する一点のみで実現した、奇跡というよりは運命的な作品だと思う。
語り口が多すぎる。

バットマンシリーズであることは、予算の調達や興行において大きな意味があっただろう。
本作が強く意識する、タクシードライバー、カッコーの巣の上で、セルピコといった70年代の社会派ドラマのような企画は実現が難しい。
バットマンシリーズであり、ジョーカーであることが作品に華やかさを与え、言葉にならない期待感を醸成する。

ホアキンに関してはもう言うまでもない。
いや、言いたいことは山ほどあるけれどすでにたくさん絶賛が溢れているし、そもそも言葉では表現が難しい。
痩せ細って曲がった背中が忘れられない。

本作は、究極の悪としてキャラクターが定着しているジョーカーに同情し、感情移入してしまい、暴力を是と捉えてしまう怖さがある危険な映画だと言われる。
心優しいアーサーが少しずつ狂気を帯びて「絶対悪=ジョーカー」になってしまう話だと。
でも僕には、あまりそう思えなかった。
どちらかといえば狂っていく話というより、冴えていく、覚醒していく話ではないだろうか。

アーサーは、生まれた瞬間からずっと被害者だった。
現代社会においては少数派で病気だとカテゴライズされる精神症状を抱えながら、貧困の底で抑圧に耐え、母親を介護しながらつましく暮らしてきた。
笑うべきではないとされる状況で笑い、現実と妄想を混濁することで生き永らえてきた。
そうした生活の中で、悪ガキどもに痛めつけられたり雇い主から理不尽な仕打ちを受けたりカウンセリングを打ち切られたりすることで、少しずつ学び、理解していくアーサー。
どうして、自分を虐げ笑い蔑む世の中が正しくて、懸命に生きる自分が狂っているなんて思っていたのだろう。
どうして、誰かにとって都合のいい世界に合わせて生きる必要があるんだろう。
まるで靄がかかっていた意識が少しずつ晴れていくように、アーサーは覚醒していく。
そんな風に見える。

アメリカでは、本作の上映に影響されて暴動が起こるのではと危惧されているという。
危険だから上映すべきではない、という声も上がっているらしい。
そういう、今の世界を脅かすものは全て間違ったことだという自分たち本位の意識こそが、ジョーカーを作り上げるんじゃないだろうか。
社会が生きづらいと感じる人は間違いなく居て、彼らは自分たちを社会にフィットさせながら生きなくてはならない。
大多数の人々が作った価値観の中では、少数派は「おかしい」と思われる。
そして、時に笑われる。

アーサーは、降りかかる不幸と抑圧、嘘、でっち上げを、身をもって経験することで理解を深めていく。
そして、今まで虐げられ、おかしいと笑われてきたことで、気づくのだ。
自分の人生は悲劇なんかではなく、喜劇だったことに。
誰かの不幸こそが、笑いを取れる世の中であることに。
そして非道であればあるほど、笑いとしては高度で価値のあるものになるのだ。

暴動が起こり秩序が崩れるとき、恐怖や嫌悪を感じるのは、それは今の社会に安住しているからに他ならない。
逆に、もし世界が地獄でしかないと感じていたとしたら、街が燃え崩れる樣はまるで、革命による弾圧からの解放に見えるのではないだろうか。
誤解を恐れずに言えば、ホロコーストから解放されたユダヤ人のように。
パトカーの中から街の風景を眺めるアーサーの、満足げな笑顔の眼差しはどこまでも清々しく、利己的なものや残虐性は微塵も感じられなかった。

本作は観る前から主人公がジョーカーという絶対悪になる話だということが分かっているので、その過程にこそ注目すべき映画だと言える。
その絶対悪だと思っていた、絶対に理解できないと思っていた存在の背景を知ることで、理解できない絶対悪という前提が崩れてしまう。
つまり、この世界はひとつではない、ひとりひとりにそれぞれが思う世界があるということだ。
それを忘れてはいけないのだ、と。
人気原作の価値は、こんなところにもあった。

今はなんでもすぐ自己責任で、許容が著しく薄れているように思う。
ITはコミュニケーションのハードルを劇的に下げるテクノロジーだけれど、結果的には都合のいい、楽なつながりに終始してしまい、都合の悪いことはどんどん見えなくなってしまっているのかもしれない。
そういうことも、本作にあるような格差や貧困、抑圧を生む要因なのかも。

自分と他人が見ている世界は違う、それは他人の価値を受け入れて理解すること。
自分の価値観を押し付けて、同調圧力をかけてはならない。
改めてそんな気づきを与えられたようにも思う。

ホアキン・フェニックスの演技が凄すぎて忘れられがちだけれど、本作は撮影がものすごい。
ファーストカットでこの作品が特別だと感じ、どのカットも芸術的に完璧で、それが最後まで続く。
悪ガキどもを追いかけて路地の手前で滑るシーンの、絞りを効かせた奥行き感。
うわ!と声に出た。
予告編の凄みは、撮影の凄みだ。
いろんな人がいろんな画像を使って投稿しているのは、使いたくなる画像がたくさんあるということで、それは撮影監督の力だ。
撮影監督のローレンス・シャーはトッド・フィリップスとずっとコンビを組んでいるのだけれど、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」の撮影監督でもある。
あの撮影も本当に素晴らしかった、怪獣をかっこよく感じたのは初めてだった。
現代のカメラマンではロジャー・ディーキンスがずば抜けて最高峰だと思っていたけれど、ローレンス・ジャーはもしかしたら肉薄しているかもしれない。
ホアキンやトッド・フィリップス以上に、注目したい存在だ。

本作の構成の下敷きになっている「キング・オブ・コメディ」という映画も、70年代にスコセッシが撮った作品。
ロバート・デ・ニーロ扮する売れないコメディアン=パプキンが現実と妄想を混濁し、売れっ子コメディアンに憧れて奇行を繰り広げる。
パプキンは一夜のコメディ王の地位を無理やり勝ち取るが、口をつくジョークは強烈な自虐ばかり。
ここでも不幸が笑いのネタになっていて、悲壮感が漂うほどに必死にステージを盛り上げるパプキンを見ても、笑うに笑えない。

本作のラスト、おぞましいコントのようなシーンと全く同じシーンが「キング・オブ・コメディ」にあるので、機会があったら観てみると良いかも。
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