原作を半分ほど読んだところで臨んだ。人物の出入りが多く入り組んでるので背景を知った上で観られてよかった。史実を基にした原作では同時並行的に詳述されているFBIの誕生、捜査官トム・ホワイトと局長エドガー・フーヴァーの人となりや捜査に至るまでの経緯などは映画では省略されているし、原作は映画の先のところも描いているので、まだこれから読み進める楽しみがある。
またこれも原作の話になるが、読んでてもこれが史実であることがにわかに信じがたいくらいに面白い。面白いという表現は不謹慎だが。しかも当時の写真がかなり残っていて登場する人たちや事件現場、街の様子などの写真が多数載せられており、あ、これは実際にあったことなんだといちいち気づいてぞっとする。映画の中でも人々がそろって写真を撮るシーンが何度も出てくる。
アメリカ先住民族のオセージ族が、オイルマネーにより侵略者であった白人と支配-被支配関係の逆転した生活を送りながらも、白人に有利な制度により「資産」として利用されていたということも、本作で初めて知った。映画ではその経緯がファウンドフッテージを模した映像や中間字幕で端的に表されていた。
映画の方は、オセージ族をはじめとするアメリカ先住民族の尊厳をもって描くことに力を入れているように思った。しかし先住民族はすでに教化され白人様式の生活スタイルに馴化しつつある世代が中心となっている。白人男性は一攫千金を狙う者やゴロツキ、犯罪者などのほか、第一次大戦従軍のPTSDを患う者もいたのかもしれないが、とにかくオセージ族に使役される側となり鬱屈した差別意識を増幅させるか(この辺は現代アメリカ白人労働者階級も彷彿とさせる)、オセージ族女性との結婚により「不労所得」を得て昼間から自堕落するか。何も無かった荒野に突如できた街は躁状態でハリボテのようでもあるし、先住民たちも白人たちもハリボテの上で踊らされている感じが、映画ではより伝わってきた。
そのハリボテは有力者かつ篤志家の白人男性の私利私欲を満たすための、壮大な計画に利用される道具でもあった、という恐ろしさは、果たして映画だけで伝わるのだろうかとも思った。
映画では割と初手からロバート・デ・ニーロがヒールであることをバラしてしまってるのだけど、原作のようにもう少し溜めてほしかった気もする。デ・ニーロなら善人ぶりを存分に見せておき実は、などという役はお手のものだろう。切り返しの会話が多く単調になりがちだがこれだけ役者がそろえば顔だけで成立してしまう。
ディカプリオが後半ずーっと「×」の字みたいな顔で、ラストのところでやっと「ニ」の字に緩む。彼の演じるアーネスト・バークハートはどこまでも小物で、しかし小物ゆえの決断は、いまの時代ではある意味ヒーロー像になりうるのかもしれない。
ケリー・ライカート作品で大変に印象的だったリリー・グラッドストーンも好かった。原作に掲載されているモリー・バークハートの肖像写真で、彼女が気高さと聡明さを併せもっていたことを想像できる。モリー役のグラッドストーンも、オセージ族の伝統を守り、目先のことに惑わされない雄大な聡明さと尊厳を静かなアルカイックスマイルで表しており、大変魅力的だった。
劇伴が確実に映画を引っ張っており、通奏低音のように四つ打ちが続き不穏さを保っていた。エンドロールの環境音も大変よかった。
あと何故かアメリカの夜で撮っているシーンがあった。