レインウォッチャー

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
語るべきところが控えめに言って多すぎる映画で、実に厄介でとても幸せ。手渡されたこの深く赤黒い余白、どうすりゃいいってのさ。

空前のオイルマネーで沸くオクラホマで起きた、オセージ族の連続変死事件。アメリカの偉大なる開拓史が孕んできた闇を象徴するようなこの事件を、じっくりじっとりと語る。
ミステリ的な快楽をあえて廃し、人物を深く見つめるアプローチ。L・ディカプリオ演じる男、アーネストを通して浮かび上がるのは、スコセッシ映画で描き続けられてきた定番の系譜でありながら、それがついに国家や人間そのものといった深く根源的な場所に繋がったような感覚だ。

定番と書いたのは、カリスマを発揮する(疑似的な)父親、彼からの悪しき形質の継承、そしてそれに対する抵抗・葛藤、といった要素。
アーネストと、彼の叔父にして地域の名士ビル(R・デ・ニーロ)の関係はこの構図にそのまま乗るものといえる。『ギャング・オブ・ニューヨーク』に『ディパーテッド』、それに『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(※1)も含め、ディカプリオはスコセッシ映画でこの種の人物を演じ続けてきた。

ただ中でも今作が特異なのは、上で挙げた作品のキャラクターに比べると、今作のアーネストははっきり《愚鈍》とさえ言って良い人物ということ。

彼が優柔不断で、流されやすい人物であることは序盤から既によくわかる。駅前で出くわした喧嘩に外野から乗っかったり、運転手の仕事中なのに賭けレースの盛り上がりに注意を取られてしまう。
彼のこの特性が、物語が進むにつれ取り返しのつかない形で広がっていくわけだけれど…強烈に印象に残るのは、最初から最後までずーっとへの字口で力んでいるような表情。

この顔、何かに似ている(あと笑える)なとずっと思ってたら…ああわかった、《子供》だ。

悪さをして大人に叱られ、なんで自分が怒られているのかも本当はよくわかってないけれど、とりあえず我慢してその場をやり過ごそう…そんな子供じみた所作に見えてくるのだ。ビルから食らう手痛い「お仕置き」シーンや、終盤の裁判所における一連の場面もまた、この印象を補強する。

アーネストが内に持っているのは、自立しない(できない)子供の精神のまま大人になってしまったような、自堕落とコンプレックスだ。
一人前の男として認められたい、それは彼の妻となるオセージ族の女性モリー(L・グラッドストーン)を本心から愛したゆえに芽生えた純粋な思いだったのかもしれないけれど、ゆえにビルのカリスマ(※2)に対する憧れと引け目へと転じて、彼に都合良く操られることになったともいえるだろう。

彼は本当に最後まで(そして最後の先も)、事態の本質を理解していなかったように見える。
さて、こんなアーネストは、果たして《悪人》なのか?これが、今作の立てている大きな問いのひとつだと思う。

ここまででおそらく誰もが気付くように、アーネストとはつまり、社会の大多数を占める《凡人》である。
ビルが作り上げたこの異常な環境の中で、それでもなんとなく手前の利益を追って順応してしまえる人物。それは多くのあなたであり、もちろんわたしだ。

そんなアーネストを挟んで両極に位置する存在が、ビルとモリーだろう。
片や事態の黒幕、片や被害者…という真逆の関係性ながら、2人にはいくつか共通点がある。本心がわからないこともそのひとつだ。ビルもモリーもなかなか激昂したりせず(ビルは「騒ぐとバカに見える」とか言うし、オセージ族は無口。《大人》な態度だともいえる)、特にモリーは徐々に仏像のような超然とした表情で、逆にアーネストの感情を反射するような佇まいを見せる。

ビルの言葉はどこまでが本心だったのか。モリーはいつまで夫やビルを信じていたのか。それらはグラデーションの中に落とし込まれている。
これは、アーネストという「曇ったメガネ」で見たビューでもある(※3)。アーネスト視点では、2人は共に大きな謎、言い換えれば神秘に近いものであり、いずれにしても彼の行動を両サイドからコントロールする存在なのだ。

その様は、まさに表裏背中合わせの神と悪魔のよう。あるいは、オセージ族の《ワカンダ》信仰が示す、「火は父、月は母」のような二面性だろうか。
ネイティブアメリカンの信仰と白人が持ち込んだキリスト教が衝突・融和するこの土地で、1人で立つことのできないアーネストは信じるものを求めて迷い続ける。(※4)

無知、愚かさこそが、時に《最悪》になり得る。
歴史の教科書やwikipediaに名前を残すのは一握りの大きな人物だが、その下で殺すのも、死ぬのも、名もなき小さなアーネストたちだからだ。今作が示すのは、あらゆる時・あらゆる場所に連なり繰り返し続ける、そんな真理なのかもしれない。

この日本でも、たとえばかつてのアイヌと本州人との摩擦などは、部分的に今作と似ているところがあると思う。まずは、知ることから。そして、目の前の《薬》の中身を直視することから。

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まあ3.5時間は率直に長いわけだけれど、大天使Manamy様から伝授いただいた豆大福メソッドで膀胱は事なきを得た。感謝です。

長い会話の単調な切り返しなど、退屈に思えるカットもありつつ(まあこれだけ名優ぞろいなので顔をねっちょり映したいのはわかる)、定期的に挟まるバッキバキに極まった恐ろしい画(そう、アレとかアレとかアレとか!)に目が醒める…という繰り返し。

なんというか、「すげー長かった」のと「長さを感じなかった」のって両立するんだ、というとても不思議現象を体験した気がする。これが映画の魔法なのか。

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※1:手痛すぎる皮肉と共に、観客に「お返し」するラストシーンも含め、実は今作は『ウルフ~』とよく似ている。時代もテンション感もまったく異なるけれど、法律というシステム自体を巨大なナイフにしてしまうというやり口も同じだ。今作は、マイナーキーに転調した『ウルフ~』といえるかも。

※2:ただしカリスマといっても、やはり中身は虚ろだ。彼を「キング」と呼ぶのは、ごく限られた身内だけであることがわかる。
彼は進退窮まった終盤においてもなお「オセージ族からは愛されている」と嘯くが、本当にそう思い込んでいたのかも。そこが一番の怖さであり、どこか彼がよく引用する聖書の神とも近い、と思ってしまうのはわたしだけだろうか。(特に旧約系。勝手な試練やルールで人間を殺しまくったりしておきながら愛を説き愛を求める感じ)

※3:「歪んだ認知」モノ、としてみれば、『シャッター・アイランド』でもある。

※4:ここからリンクするのは、当然『沈黙』。アーネストもロドリゴも、《父》なる存在からの継承を拒否し、いったんの結論を出してなお、すっきりと救われることはない。彼らにはその後の人生があり、そして道は今へと続いて行くのだ。