すずきたけし

Fukushima 50のすずきたけしのレビュー・感想・評価

Fukushima 50(2019年製作の映画)
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「ふぐしまはどうなってしまうんですかぁ」
ダンカンこのやろう、オマエ埼玉出身じゃねえか。

はい、ということで『Fukushima50』観てきました。

まずは福島第一の免震棟の対策室や原発施設とかの再現の気合いが凄い。
あの時のあの映像が映画で再現されてましたよ。

映画の粗筋はまあ省くとして、メインは福島第一の現場の皆さん。
そう、『プロジェクトX』的なやつでした。
他の席からすすり泣く声が聞こえていたし、僕自身もあの時の事を思いだすとやっぱりこみ上げるものがありました。

これ、泣ける映画になっているんですよ。
仕事への誇り、仲間との絆、郷土への愛着、家族。
もうてんこ盛りです。

で、

冷静にならなければいけないのは、この映画が何を描き、誰に向けて作ったのかということだと思うんですね。

「東電の現場の皆さん頑張ってくれてありがとう」

という事で片付けてしまうことは乱暴なんじゃないかと。
そこを主題にしてあの福島第一を描く意味は無かったと思うんですよね。そんなもんは吉村昭の『高熱隧道』でも映画化すればいいんですよ(観たい!)。
これを観て「泣けたぁ。いい映画だった」なんて無邪気に言えないですよ。

あれだけの国難を描くのだから愛だの絆だのトモダチだのはまとめて窓から放り投げて、パニクった菅直人(とは映画では言ってない)のいきなりの現場視察や、東電本店の「総理に言っちゃったからやれ」という組織の危機管理のドタバタをメインに据えて観客の血の気をドン引きさせて欲しいですよ。

誤解を恐れずに言えばエンタメになっていないんですよね。
サスペンスフルな演出が一切ないんです。
電源喪失の深刻さも「SBOです!」「SBOだって?!」「SBOです!」「SBOだって!」
と連呼されるんですがSBOってなんなんだよ!
(ステーションブラックアウト、全電源喪失です)
ここから映画の終わりまで全員が怒鳴り続けます。
格納容器の高まった圧力を排出するベントを原子炉建屋内で人力でおこなわなければならないシーンでは志願者の自己犠牲ばかりが描かれ、本来そこで命を失うかの瀬戸際での見えない放射線との緊迫感も恐怖感も薄い。
また福島第一から半径250kmが人の住めない場所になる一歩手前(映画だと死の灰が舞ってるのは酷かった)までの状況も、もう少しヤバさをうまく演出しても良いと思うんですよね。東電本店の人の震える唇だけじゃだめでしょう。

福島の人がみたら「頑張りましたじゃねーよ」と思う人がいると思うんですよ。本来はこの人類史上初めての自然災害による全電源喪失の原発トラブルに対処している政府や企業、国民全体の問題点こそ映画は描かなければならないのではないでしょうか。
 『日本沈没』(1973)がそうであったように。
(ちなみに『Fukushima50』で「会津には被害はない」というセリフは『日本沈没』へのオマージュか。また会津の造り酒屋で働く斎藤工が出てきますが、これは2006年版『日本沈没』へのオマージュでしょう)

単純に「福島第一の映画はどんな映画にするの?」という質問をした時に、この映画を作っている人はなんて答えるのでしょうか。
「泣ける映画」
「感動する映画」
なんて普通は口が裂けても言えないと思うんです。
「怖い映画」でないと福島第一を映画にする意味がないと思うのです。

あとあの震災と事故について観客は知っている、共有しているという前提での作り手の甘えなのか、あの時日本が未曾有の危機だったことを少しも描いてない。
三陸など東北太平洋岸地域の被害は少しは描かないといけないんじゃないかと思う。
またそこでの在日米軍が不自然にフューチャーされていて、比べて実際はあれだけの活動をした自衛隊の扱いが僅かだったりして納得はいかない部分はありましたね。

 怖い映画にすべきとここまで確信をもって言えるのはドラマ『チェルノブイリ』があったからです。1986年に起こったチェルノブイリ原発事故を描いた5話構成のドラマですが、このドラマにもチェルノブイリで働いた人々や消防士にも家族がいて、生活があったことが描かれていました。しかしそれは主題ではありません。やはり主役は原子炉であり、それを制御できない人間の愚かさ、国家や組織の機能不全、そして人類にとって開けてしまったパンドラの箱のように恐れ慄く存在としての原子力として描かれていたわけです。あのとき、なにが起こり、なにが問題だったのかということを一歩引いた冷徹とも言える視線で描いたこのドラマには怒鳴るシーンなどほとんどありませんが、とてつもなく恐ろしいのです。
 もし未見でしたら是非見て欲しいドラマです。

そして映画の最後、佐藤浩一が
「この事を語り継がなければならない」と語るのですが、語り継ぐ事とは何を指しているのでしょうか。東電社員の奮闘のことであればこの映画がひとつの会社内の出来事として矮小化されていると思えますし、もっと大きな社会的な教訓であるならば映画はそれを描ききれていませんでした。
この映画は果たして誰に向けて作った映画なのか?と問わずにはいられません。

英雄を求めることは危険だと思うのです。
もちろん現場で奮闘された方々には心から敬意を表します。ただ、それを自己犠牲と感動の英雄譚として描かれてしまうのは危険です。英雄待望論と英雄の登場は「お任せしました!」という思考停止につながる。
とくに社会的に危機的状況の時ほど危険で、それは過去ヒトラーが登場したことを考えればわかります。
まだ事故の収拾がついてない段階で、この結論に至る『Fukushima50』
はただただ間違ってるなぁと感じた映画でした。
すずきたけし

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