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天気の子のKKMXのレビュー・感想・評価

天気の子(2019年製作の映画)
3.5
 中二病ここに極まれりッッ!稀代の中二病作家・新海誠が放つ、問答無用の反抗期ムービー。反抗なくして中二病に非ずッッ!
 本作は、合理主義に毒された大人に、ふたりを引き裂く不条理な運命に全身全霊で反抗するガーエーで、オマケに都会に生きる孤独なボーイミーツガールという浜崎あゆみ臭さもありました。大メジャー2作目でここまで振り切った作品をブッ放した新海の中二マインドに拍手を送りたいです。

 本作はこれまでの新海作品の中でも思春期イズムが際立っており、自分の黒歴史を刺激されながら心地悪く観つつも、その切実さに胸を打たれるという、新海作品でしか感じられない体験ができて満足です。この純度200%の中二病っぷりにこのワタクシめはすっかりシビれ上がりましたよ。


 永遠に雨が降り続く東京。『ライ麦畑でつかまえて』を引っ提げて家出してきた思春期男子ホダカ(この設定だけで中二病5千万点!)。都会で浜崎あゆみ的に彷徨っていると、ピストルを拾い、銃をブッ放してチンピラから少女を助けたりしてしばらく過ごします。その後ホダカは怪しげなオカルトライターに拾われます。そして、雨を止ませる力をもつヒナと出会います。ヒナと共にホダカは晴れ女業を始めて小銭を稼ぐようになりました。しかし、ホダカには警察の魔の手が……とあらすじを書いているだけでなんだか恥ずかしくなるストーリー。だが、それがいいッッ!


①新海誠と反抗期
 反抗期とは何か。人は思春期に突入すると、急激に心身が変化します。体が大人化し、それに伴い性的な衝動の増幅や、周囲からどう見られるかという自己意識の高まりが生じます。また、中学以降は将来の道筋が具体化していき、否応なく大人になること、すなわち自立した存在になることを強いられていきます。
 単なる子ども時代の延長のまま大人になってしまうと、保護者からの影響をモロに受けて、親の劣化コピーのようになってしまい、その人が元々持っていた個性は発揮されず、自分自身を生きる実感なく生きていく可能性が高くなります。それを阻止し、「自分は自分だ!」と主張して、自分の人生を生きるには、親という強い重力から全力で反発する必要があります。そして、思春期特有の衝動性と融合して怒りが渦巻くため、その態度・行動は大変激しく、大人から見ると実に鬱陶しい。これが反抗期です。
 大人からすれば稚拙で非合理ですが、切実にガチンコで反発することで、自分なりの生き方を模索していると言えます。なので、反抗期は重要なイニシエーションなのです。

 新海はつながりと断絶・喪失を描く作家だと感じています。これまで新海が描いてきた喪失に伴う感情は、痛みと悲しみ(『ほしのこえ』)、ナルシズムによる防衛(『秒速5センチメートル』)です。これらは突如大人の世界を生きざるを得なくなった思春期の子どもが抱える戸惑いだと思います。しかし、これまで戸惑いは描かれていても、意外と怒りは描かれていませんでした。新海作品は中二病でありながら、中二の最重要ポイント・反抗は描かれてないのです。
 でも、新海は絶対に怒っているんですよ、きみとぼくを引き裂く運命に、急に大人にならざるを得なくなる運命に。そして、本作ではこれまで抑圧して描かれなかった大人への怒り、不条理な運命への怒りがついにスパーク!初めてロックンロールを聴いた少年少女のような熱さです。
 ずっと大人しくいい子に喪失の痛みやセカイ系を描いていた新海が、ついに反抗期を迎えました!大切なのはきみとぼく!セカイなんか関係ねぇ!大人からすると眉を顰めますが、ひとりの自立した人間になるには、やはり大人への反抗は必須だと思います。

 そして、この反抗期の熱に触れることで、自己を殺して環境に適応して生きるうちに自分が何者かを忘れてしまった大人が、心を揺さぶられて若い頃に感じていた心の震えを再体験したりするワケです。本作でも、ホダカを保護していた大人・スガとホダカを探している老刑事との会話シーンで、印象深い描写がありました。老刑事が「すべてを捨てて会いたい人がいるのは、なんだか羨ましい」と語った後、スガがつーっと涙を流すんですよ。この2人は、ホダカの初期衝動に心を揺り動かされたのだと感じました。
 本作が持つ力は、これと同等のものだと思います。若い世代以外にも本作が届いてヒットした本質の部分は、ロックンロールな思春期の初期衝動パワーが大きく関与していると推察します。
 ……とは言え、ま〜本作のロックンロールはラッドウィンプスなので、自分が是とするクラッシュやイギー・ポップとは違うテイストであるため、ほとほと自分には合わないのですが。GEZANや折坂悠太が流れるような作風であれば、俺もこんなに嫌な思いをしながらガチ観することもなかったでしょう。しょうがない。


②合理主義vs自然共生主義
 そして新海誠のもうひとつの大きなテーマである、信仰心をベースとした土着性や自然とのつながりについて。本作を観てから、新海は現代的合理主義に限界と怒りを感じ、その解決方法を過去から連なる伝統的自然共存主義に求めているように感じています。
 東京に降り続く雨は果たして災害なのか。気象神社の神主の言葉からは、悠久の歴史から見ればそれが決して異常災害ではないことがわかります。ラストの高齢女性のセリフから、大きな変化を遂げた東京が、実はかつての姿であることも示唆されます。
 前作でのセカイは、守ることできみとぼくの関係をアツくするためのツールだったと感じています。今回は、セカイは大人と合理主義の象徴となり、きみとぼくの反抗の対象となったように感じました。きみを守ると同時に、忌むべき現代的合理主義を葬り去ってやったぜ的なニュアンスが漂うのです。あのラストは、セカイ系的な高揚感だけでなく、現代的合理主義の否定も描いているのではないでしょうか。
 現代的合理主義が『あるべき自然と人類の共存する姿』を阻害し、断絶させ、喪失させているという忌むべきものであり、自然と共存していた太古の智慧を呼び覚ますことでつながりに満ちた本当の意味で幸福な社会を作りたいという新海のイズムが、今回はっきり描かれたと思います。

 あと、本作でシャーマンについて考え始めました。晴れ女・ヒナは鳥居をくぐってシャーマン性を獲得し、『君の名は』のタキは御神体の最深部で口噛酒を飲み、時空を超える力を獲得します。
 シャーマンとは、この世とあの世をつなぐ存在で、境界に存在する人。これを人に置き換えると、意識と無意識の境界を揺らす存在になります。
 合理主義のまま世界が進むと、カネとか利便性とか目に見える利益のみ追求するため、大きな変容が起きづらく、人々は空虚になり暴力的になっていくような印象を受けます。そのストーリーを根本から覆すような大きな変容を起こすには、シャーマン的な力が必要となり、そのためには伝統的自然共生主義に返る必要がある、と新海は暗に主張しているように感じます。


③俯瞰的視点と成長
 そして実際、本作には成長の兆しも見られました。それは俯瞰です。本作は天気がモチーフだからか、俯瞰ショットがたくさん出てきます。俯瞰とは他者視点を取り込むキモです。人は他人になれないので、世界を自分中心で見ざるを得ません。しかし、決して自分は世界の中心ではないです。同じように自分を生きている他者は、当たり前ですが人の数だけいるのです。
 そのため、世界を上から眺めて全体像をはあくする俯瞰は、世界の存在を実感し、感覚にコペルニクス的転回を与える可能性があります。特に、情緒的な動きを伴った俯瞰は、人を一気に大人にするパワーを秘めています。典型的な例は『ドライブ・マイ・カー』のクライマックスです。家福とみさきが激しく思いを語り合った直後、カメラが雪の接写から一気に俯瞰ショットに切り替わり、雪景色の先に街が見えます。つまり、これは2人が視野狭窄の囚われから解き放たれて大いなる成長を果たしたことを示しています。
 本作の俯瞰はあんまりエモくなく、情緒と俯瞰の結合は感じませんでしたが(だからあの結果)、今後新海は他者視点を獲得する可能性はあります。その時、新海はまた前進し、やがて中二病から卒業するでしょう。



 合理主義の中で自然共存主義を維持して生きることは、世界の複雑さを受け入れていくことになります。そして、そのプロセスには従来の価値観に取り込まれずに独立した人間になるための闘い=反抗が不可欠です。そしてこの大人から見れば稚拙で無様で切実な闘いこそが中二病なのだと思います。もちろん、激しい中二病を経験せずにスマートに大人になる人もいるでしょうが、基本的には重大なイニシエーションだと思います。

 中二病の終わりは、どのチャートを選んでも完全なハッピーエンドの無い世界を受け入れていくことです。きみとぼくの満たされた完全な恋など幻であり、互いの醜さや受け入れ難さに直面しながらも絶望せず、折り合いながら主体的に力強く人生を前進していくことで、人はいつの間にか中二病から卒業するのだと思います。
 『ほしのこえ』から代表的な新海作品を順を追って観てきましたが、作品ごとに成長していく様子が窺えます。まるで大人の階段を登るように変化しているので(実際の新海は中年で年頃の娘を持つ父親なんですけど)、いつの日か中二病作家・新海は中二病を卒業する作品を作り上げるのではないか、と期待しています。


[オマケ]
 ふと閃いたのですが、ひとりでコソコソとアニメを作っていた繊細な中二病ヤローが、突如マスに見つかって、大金を生み出す嵐のような世界に巻き込まれてしまったワケですから、こういうめちゃくちゃ反抗する作品を作らないと、新海は巨大なシステム、すなわち己が忌避する現代合理主義に取り込まれると感じていたのかもしれません。何せ、あっちこっちにタイアップがついて、間違いなく資本の原理で身動きが狭められてしまうと思いますし。現代合理主義すなわちバビロンシステムの中で生き抜くには、本作みたいなボムをブッ放す必要があったのかもしれない、と思った次第です。
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