一人から家族へ、また一人になって、二人になり、家族へと還っていく。
主人公が写真家になる以前、以後の変遷を形作る、様々な人や家族との撮影、震災を通じた出会い。
そこで主人公が体験した喪失と再生への想いが『浅田家』へ集約されていく様子を、「希望」と呼ばずして何と呼ぶか。
絶望の渦中へ蹲る人には最も届き難いこの「希望」という言葉が「ただそこに在り続ける」力強さに、笑って泣いて圧倒される。
頭の奥で一緒にスクリーンを見ている嫌味な自分も次第に大人しくなって、映り込む全ての「希望」を受け入れていた。
浅田家の写真もこの映画も、虚構を通してこそ思い出すことの出来る体温を楽しみながらも懸命に産み出す、生きる意思そのものだった。