レインウォッチャー

フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.5
あらゆる創造者へ、マニフェストにラブ・レターを添えて。

ウェス・アンダーソン監督の2022年現在最新作、同氏の作品群の中では一、二くらいに好きな作品になった。
そして何よりまず、「映像はシャレてるけど中身は特に…」な映画なんかでは決してない、ことを初めに明言しておきたい。

今作は、あらゆるクリエイター、あるいはアーティストと呼ばれる人たちへ向けた最大級の讃歌であり、宣誓書であり、恋文なのだ。

それを描き切るために、ウェス・アンダーソンは架空の街アンニュイ=シュール=ブラゼと、そこに拠点を置くこれまた架空のカルチャー誌フレンチ・ディスパッチ誌を作り出した。
この編集長(ビル・マーレイ)が急死してしまうことから映画は始まり、その追悼号に載るもちろん架空のよっつの記事を、やっぱり架空の各担当ライター(①オーウェン・ウィルソン②ティルダ・スウィントン③フランシス・マクドーマンド④ジェフリー・ライト)が語る様子を映像化して見せる、というオムニバス形式で進行していく。

まさに雑誌そのものを映画にしてしまったという感じなのだけれど、さらにその各編の中でもまた劇中劇のようなものが挿入されたりもして、何重にもなった入れ子構造、万華鏡世界が繰り広げられるのである。この混乱、至福。

記事の内容はバラバラに見えるが、序章的な位置付けである街の紹介記事(O・ウィルソンの分)を除くメインの三遍には明確な共通点が見えてくる。
それは、どのエピソードも絵画、文筆、料理…といった「芸術」に(時には偏屈ともいえるほどの美学をもって)取り組む人物を扱っていることだ。

各編では、そんな芸術家たちの周りで起こった珍奇な事件のあらましが、ユーモアとペーソスが上質のコーヒーのようにブレンドされた文章で語られていく。
そこにはライターたちと芸術家たちとの紛れもない美の交感、愛のスパークが見てとれる。ライターの性格は三者三様だけれど、みな取材中に出会った人々の芸術に対して静かな敬意を忘れない。

そしてそのスタンスは、件の編集長のライターたちに対する待遇に根っこがあり、意思に共感し継承していることが映画内でわかってくる。彼は広告枠を削ってでもライターの意思を尊重し、留置所に入れば助け出す。徹底した「作り手」第一主義なのだ。

そもそもこの「フレンチ・ディスパッチ誌」や編集長、ライターたちの人物像には明確なモデルがいる。総合カルチャー雑誌として長い歴史と影響力を誇り、かつてカポーティやサリンジャーも連載を持っていたことで知られる『ニューヨーカー』誌である。
ウェス・アンダーソンもまた大ファンの一人で、自己形成において多大な影響を受けたらしい。直接的には、この映画はそんな『ニューヨーカー』への感謝とリスペクトの表現でできている。

しかしわたしには、ここにも「入れ子構造」があって、アンダーソン氏自身の映画作りや関わるクリエイターたちに対する想いが優しくくるまれてあるように思えてならない。

編集長の姿はきっとアンダーソン氏自身でもある。自ずと、ライターは俳優やスタッフたちだろう。
俺はこれからも自分が好きと信じる映画を作り続けるよ、共感するやろうどもはついてきやがれ、とでも言いたげじゃあないか。この眺めているだけで目眩がしそうな豪華キャスト陣のリストが、何よりもそれを裏付けている気がする。

現在、雑誌…に限らず旧来からあるメディアやコンテンツ(もちろん映画も含めよう)のもつ価値は昔と比べれば随分と変わっただろう。
いまは個人がいつでも手元のデバイスから無尽蔵の情報にアクセスでき、時間という枠だけが変わらない中で、玉石混交の「量」の氾濫が「質」を押し流している状況だと思う。けれど、だからこそキュレーターや翻訳家としての「セレクトする」価値がまた重要になることを信じている人々は確かにいて、その復権のときのため城を守らねばならないと思っている。
ウェス・アンダーソンも、きっとその一人なのだろう。この映画は、先人たちへの葬送曲でありながら、新たな狼煙でもあるのではないだろうか。「置き去りにした何かを皆探している」…。

編集長の生前の言葉「NO CRYING(泣くな)」に従って、ライターたちはオフィスで涙を流さない。
けれど、彼らの記事の中では登場人物たちがかわりに涙を流す。音楽家を音楽葬で送りだすように、ライターたちは自らの領分において哀悼の意を表し、誠意をもって報いたのだ。

そんな姿を見ているとわたしはなんだか涙ぐまずにいられなかったし、この涙を享受できる幸福を微力でも守りたい、なんて思ってしまった。

わたしはずっと、こんな映画を観ることを待っていた気がする。
ありがとう、アンダーソン。また観に行くよ。今日のところは、ごきげんよう。(Au revoir. って、発音できたらよかったのだけれど。)

——

逆に映像面のあれこれについて触れられなかったけれど、ウェスアンダーソン満漢全席というくらいの勢いで詰め込まれまくっている。これもまた、雑誌が政治批判から漫画まで何でも載せられるように…という感じ。

相変わらず情報量がえげつなくて、既に二回観に行ってしまった。
館内では時折自然に漏れたような笑いがほうぼうから聴こえてきて、あたたかい雰囲気だった。