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燃ゆる女の肖像の海のレビュー・感想・評価

燃ゆる女の肖像(2019年製作の映画)
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ここに描かれている、芸術家のことには、頷けるし、むしろ感心さえした。芸術に従事するということは、自分の中にある愛よりも、その愛で何を作り出せるかに重点を置くということである、とそんな身勝手というか、厚く深く見えて残酷なほど薄情というか、“悲しみがいずれ自分を形成する”んじゃなく“自分をより深くする悲劇を演出する”のを望んでいるようなその、自分の身に起こるあらゆる物事を都合良く眺め歪めている、本当の薄情さを、気持ち悪くなるほど感じた。自分の中に、芸術を愛する人としてのその、過ぎ去ったもの(過ぎ去ると分かっているもの)を飾り付けてまで美しく見せたいという貪欲さが全くありませんとは思い上がれないし(演じることが出来なければ、わたしは誰とも会話が出来なくなると思う)、自分の中にだって存在するのをしかと感じながら、わたしは絵を描く人間の、言葉を書く人間の、音楽をする人間の、裏を返せば薄情で貪欲で繊細に見えて麻痺しきっている感性の一部分が、憎まずにはいられないほど悪だと思っている。本作にとって、いったい絵とは何だったのだろうか。絵が、物語の区切りとしてあるだけで(1章とか2章の文字入れの代わりにあるような)、なんというかどんな絵でも構わなかったよねと思えて、受け入れられなかった。絵を描くという行為が生産として目立つことはなく、ただただ物語によって消費されるのみであって、この映画にそぐうような特別な絵というのが、一枚目と二枚目の決定的な差というのが、もっとあるべきだったと思う。
それからこれは、本作にかぎったことじゃないのだけれど、愛と欲(性欲)が混同されることに、わたしはものすごく違和感を覚える。ひとを好きになって、それが、異性としてとか、同性としてとか、恋愛的にとか、家族のようにとか、どんな愛だったとしても、愛しているという気持ちが性欲にかならず繋がるわけではないし、逆に、相手に触れたいと、抱きたい抱かれたいと思うことが、かならず愛情というわけではないと思う。ひとを好きになる気持ちにも種類があって、その中の恋愛の中にもまた種類があって、その好きと、触れたいと、触れてほしいと、相手のからだや仕草や匂いに性的な魅力を感じるのと、実際に触れあおうという気持ちになれるのとは、全部わたしは、違うものだと思う。つながることがあるだけで、最初からつながってはいないと思う。本作のこの二人にとって、愛のもとにそういった感情があったことを、否定はしないし、それは素晴らしいことだと思うし、そもそも絡み合うこと自体を重要視するべきではないのだろうとも分かってはいるけれど、なぜ強調されなければならないのか(恋人同士の絡みこそ省き難い芸術だからと言うのならなおさらのこと)わからない。二人がどんなふうに愛し合おうと自由だ。ただそれを映してる映画に、時々違和感も、不快感も覚える。特に同性愛を描いた映画では、恋をしたらセックスをするそれがあたかも万人にとって当然の流れであるかのようにしつこく描き、している側も語られている側も受け入れるべきものとして押し付ける、本作だってついさっきまで丁寧に描写し続けていた二人の、まだ痕跡が足りず辿り着けない未熟な恋を育成する様子を、急に完熟させ、官能的で素敵でしょ目を奪われるでしょ芸術的でしょとベッドの上で服を脱がせ、近寄ればキスをさせる、そうやって暴力的なほど極端に、二人の関係を、ただの芸術作品である物語として展開させた。それにはどんな意図があり、何を伝えたいのだろう。延々とその矛盾を考える。正直と嘘を、真面目さと下心を、つくること見ること感じること心を動かすことの身勝手を考える。何度となくこんな気持ちになってきた。わたしは現実に、それが原因となって、付き合っていた人と別れたこともあった。自分の気持ちに、感情に、何も着ない心でおもうことに、蓋をしたら終わりだ。愛ってなんだろうか。わたしは未熟なんだと思う、一生答えを見つけられないくらいにもう迷い切ってしまっているんだと思う。本作を観て、ただずっと、ひたすらに、愛とはなんだろうかと、ひとを好きになるとは、恋をするとは、そのひとのためにとは、わたしとはなんだろうかと、考えた。

自分にとって、『マイ・プライベート・アイダホ』がほんとうに特別な作品だったのは、それだからなんだ、と書き出していて、少し思い知った。
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