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マティアス&マキシムのsoffieのレビュー・感想・評価

マティアス&マキシム(2019年製作の映画)
4.5
2019年公開

グザヴィエ・ドラン監督作品8作目

この映画でグザヴィエ・ドランは
監督、脚本、主演している。

ドラン監督演じるマキシムは、右目の下から頬にかけて赤い痣がある
友人達や彼を取り巻く人達はその痣の事を気にしていない、しかし一度街に出ると道行く人がじっと彼のアザを見ている

顔に痣がある上にマキシムには薬か酒の中毒だった母親がいる。
ドラン監督は作品に常に「母と息子の確執」を描く。
マキシムの幼馴染のマティアスは大卒で弁護士という社会的に認められた職業に着いている。

私が映画を観た感想は、マキシムとマティアス以外にもいつも連んでいる男友達が3人ほどいて誰が誰だか分からない、そして皆がくつろいで騒いでいるのが誰の家なのかも分からない

映画の問題点になる、マティアスとマキシムのキスシーンを映画に撮る「妹」も誰の妹なのかよく分からなかった、皆が幼い頃や学生時代から長年連んでいるので「妹」の事も皆が自分の妹のように親愛の情を込めて悪口を言っている

(あれは誰の妹?…そこは問題では無い)

5、6人男ばかりで連んでいるが、その中でもマティアスとマキシムは仲が良い事が他の友人達の会話の中に出てくる

その特別仲の良い2人が妹の映画制作のためにディープキスをした事で2人の間に距離が出来る、それは「友情以上のものを感じてしまった事への葛藤」の始まりだった


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映画では問題のキスシーンは出てこない

映画撮影の後からいつも一緒の2人がお互いの事を他の友だちに尋ねることで
「どうしたの?」と友人に逆に尋ねられるがうやむやにしている

この映画は評論家から10点満点で6.15点
「マティアスとマキシムは魅力的な作品ではあるが観客を苛立たせる作品でもある」と評されている

つまり120分の上映時間中
キスシーンの撮影があってから2人が延々とそれぞれ葛藤する場面が続き、やっとどうにか2人が本心を語るのかと思いきや、そのままさらに最後までうやむやにに終わる、続編が出来るのか?と思ったり、これで終わるのか?と思う人がいてもおかしくない。

個人的感想としてはも「物凄くリアル」

ヘテロだった男性2人が
幼馴染とキスをして彼とSEXしたいと思ってしまった事から、ゲイなんだと気付き、その現実をどうするかの悩む姿がリアル。

マティアスは一流弁護士事務所に務めて美人の彼女もいる 。
異性愛者として生きてきた30年の月日を、幼馴染とキスして性衝動が起きて友情以上の気持ちを抱いたからと言って、「彼のことが好きだ」とは突然方向転換は出来ない。

男性という生き物は自分が馬鹿にされる事を何よりも恐れるものだと聞いたことがある。

つまり社会の輪から外れる事を何よりも恐れる。

マティアスがマキシムを性的に愛していると認めることは今までの社会の輪から外れる事になる、そこまで考えていなかったとしても、今までの自分の価値基準から自分が外れる事を恐れている。

そしてマティアスが深刻に悩む理由は他にもある

キスした途端狂おしく抱きたいと思った相手が小学生の頃から仲が良かった幼馴染である事と

自分も相手ももう30歳の立派な大人である事が何よりも重い現実として目の前の分厚い壁となっている

マティアスは自分を否定してやがてそれだけでは衝動が止められずマキシムの事も侮辱して否定する

もうすぐマキシムが2年もオーストラリアに行ってしまうというタイムリミットも刻々と近付く中マティアスは殆どパニックになっている

その事に恋人は気付いているが、それほど深刻だとは思っていない

マティアスの混乱と周りの友達の変わらぬ無邪気さ、そして米国から仕事場にやって来たピカピカのエリート弁護士の存在が悩めるマティアスとの対比になっている

米国人弁護士はカナダに到着した時から
「腹がすいた」と言って食事をしながら自分がいた以前の弁護士事務所にどんな「いい女」がいたか自慢げに語っている、そして夜になるとポールダンスクラブで半裸の女の子を眺めながら酒を飲んでマティアスを呼び出す。

以前のマティアスなら疑問も否定もせずに一緒に楽しんだ「ヘテロの男らしさ」がパニック中の彼には受け付け難い物となっているのが分かる

そのためマティアスは何度も無かった事にしようとする

一方マキシムはマティアス程の自己拒否反応は抱いていない、彼はそれよりももっと現実的に母との確執という根深い悩みで傷付き苦しんでいるからだ。

2年間カナダからオーストラリアに働きに行く事で、母親から遠く離れて自分の事に集中出来る時間が彼には必要だろう。
その出発直前に幼馴染のマティアスとキスして今まで感じたことの無い感情が生まれたがマキシムよりもマティアスの拒否反応の方が激しいのは誰が見ても明らかでマキシムはマティアスに近付けないでいる。

映画は最後まで2人の関係にはっきりとした答えを出していない。

現実に本当にニコイチに仲の良い幼馴染とキスした事で、突然狂おしいほど相手を抱きたいと思うようになれば誰でも自分自身に驚き、その切っ掛けを作った人を憎み、幼馴染から遠く距離を置こうとするだろう。

この映画はそんなリアルを描いている。

マティアスとマキシムを囲む友人達は皆気のいい連中で、難しい事や個人的な事には踏み込まない様にしているのが分かる。

マキシムはマティアスと話し合おうとするが、マティアスはそれを避けて逃げてしまう。

映画はマキシムがオーストラリアに旅立つ当日で終わる、見送りの友人の中にマティアスがいる。

この時点でマティアスは無かった事にしようとしているのか、あるいは何か考えているのか分からない(多分まだパニクっている最中だろう)。

物語の中に幾つもの伏線が隠されていて、あと数回映画を見直したら何かが分かるかもしれないが、結局答えが出ていない事は変わらない。

つまりこのマティアスとマキシムの話は誰に起こってもおかしくない現実を描いている。

事の発端になるキスシーンについて「妹」が2人に説明する時に
「貴方達は男であって女でもある完璧な2人、見つめ合って理由なくディープキスをするのよ」と言うシーンがある

男であって女であって、完璧である。
セクシャリテイとジェンダーについて度々論争が起きているが、あなたと私の話になるとそれはお互いがまず自分の中の自分が求めるものを認めた上で、お互いに理解し合わない限り、次のステップに進むハッキリとした答えは出ない

そして答えを出して終わりではない
今アンハッピーエンドでも先でハッピーエンドになるかもしれないし
ハッピーエンドが先でアンハッピーになるかもしれない、それは彼等を囲む人間関係や環境も含まれる

グサヴィエ・ドラン監督がこの映画にハッキリとしたエンディングを用意せずに「観客を苛立たせる」内容と終わり方にしたのは正しいのかもしれない。

そう思わされる映画だった。

誰にでも起こり得るリアルを描いているので4.5

頭文字を同じにするためマティアスとマキシムと名前がM始まりだが、映画の中では愛称でよばれているのでひたすらややこしかった。
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