※Filmarksオンライン試写会にて鑑賞
チェン・ニェンとシャオベイの関係の進展に比例して凄惨さを増す『いじめ』の描写によって、先ず観客に「いじめを許せない」気持ちを抱かせる。
そこまでは『いじめ』という、コミュニティを限定する様な狭い視野の言葉に隠された「犯罪行為」を抑止する為のメッセージとして、真っ直ぐに受け取れる。
でも、この映画の本質はさらに深い所にも及んでいく。
一連の「事件」において、善悪のみでは判別できない領域内で起こる出来事から、罪がどこにあるのかを見せていく。
「どんなことがあってもいじめをしていい理由にはならない」という当然の認識を、後半のある展開によって試す様な作品の姿勢には、普段から免じていい罪を勝手に決めてはいないかと問われている感覚があった。
自分の善意が本当に他者への思いやりとして正しいのかを試されるその感覚は、この映画が正に『考えさせられる』意義深いものだと証明していて、さらにそんな映画が検閲の厳しい中国から生み出される背景からは、これまで『いじめ』の被害を受けてきた人たちの悲痛な心境が汲み取れる。
その辛さや、『いじめ』が大きな「罪」である事に国境など無い事を、当たり前ながら再認識した。