夫婦の呼吸を観察する映画だった。
不快感を敢えて前面に出す事で、多かれ少なかれ家庭では誰しもがこんな感じに、夫婦なりのバランスの取り方で営んでいるんだろうなと、こちらに感じさせる。
夫が一方的にクズなのかと思いきや、割とどっちもどっちでバチバチやり合う肝の据わった喜劇(悲劇)。
導入ではあまりの不快感にどうなることかと思ったが、観客を慣れさせる意味では最適だったのかもしれない。
湯槽に浸かる前のかけ湯のような、強烈なファーストシーンである。
こんなに主人公の悲惨な現状が押し出されても、正直どこか自慢にすら見えてしまう節がある。
自分は現時点では立場的に主人公以下なので、観終わった今になって色々な嫌悪が渦巻いている。
家庭に縛られてはいない分自由だけど、縛ってくれるようなものにすら出会えていない現実でもある。
思想だけはクズな主人公を上回っていたいというこの考えも、下手したらただの正当化だし、痛いのだろう。
ただ、主人公のように執筆の媒体を選り好みしたりはしない。
そこでしか書けない自分の何かが必ずあると信じるのも、恐らく脚本家の仕事の一部なのだと今の所は感じてるし、そもそも基本的に受注の仕事である脚本家が仕事を極端に選ぶのには矛盾がある。
キャリアデザインなんて言葉もあるけど、大幅に逸れない限りはそんなものどうでもいい。
少なくとも我々には。
細々としたプライドをどんどんちぎり捨てていくのも大切な仕事で、その中で本当に純度の高い「誇り」に値するものだけそばに置かないといけない。
プライドばかりも、プライド0も論外。
『理想のある現実主義者にならないといけない』と、とある映画監督は言った。
あらゆる意味で、その通りなんだと思う。
結局、この映画に未来の自分の輪郭を見ていたのかもしれない。
今この映画に出会えたということは、未来は変えられる可能性を持っている。
そう思えなきゃ、きっとこの先も駄目だろう。
だから、この映画のことは敢えて嫌いだと言っておく。
好きだなんて今の自分が言ってしまったら、あまりにも呑気だ。