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ハニーボーイの海のレビュー・感想・評価

ハニーボーイ(2019年製作の映画)
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大きな音が嫌いだ。特に嫌なのが、大人の怒鳴り声、ゲームセンターやライブハウスから漏れ出す爆音、ドアを閉めたり食器を片付けたりするときの音。心臓がどきっとして、時には生きてる心地がしないくらい不安になることもある。たぶん生まれ持ったものではない。育ってきた環境に植え付けられたものだと思う。外側からじゃ何もわからないんだよ、あなたは内側にいる、だから大丈夫だよ。もしも戻れたら、あの頃のわたしにそう言ってあげたい。ずっと違和感ばかりがあった。片親だから、ママが忙しいから、先生にも友達にも変に気を遣わせて時には聞かれたくないことを聞かれることもあった。ママが極端に過保護なことを「おかしい」と表現する親戚や知らない大人の声を聞かされることもあった。一生懸命に反論を続けてみれば、勝手に周囲のわたしへの認識は「お父さんが居ないけど幸せな子ども」になっていく。差別に満たないようなむしろその逆に位置するとして注がれる偏見という眼差しを、きっと悪とは呼べない、だけど当時のわたしにとっては苦痛に他ならなかった。親に親としての資格があるか、彼/彼女から子どもがどんな影響を受けるのか、その家庭で幸せになれるのかどうか、一体どんな聖人がそれを丁寧に区切られるというのだろう。努力せず親子になれるおとなと子どもがどこに居るというのだろう。ママとはじめて言い合った日の朝をおぼえている、場所は洗面所で、14歳のときだった。いちばん怖くてどうしたらいいのかわからなかった喧嘩は、死ぬまであの日の話をママとすることはないだろう夏の夜だった、18歳だった、わたしはひとりで泣きながら河べりの道をずっと歩いて、ひととすれ違うたびにうつむいて、インターチェンジに続く道の外れにしゃがみ込んで、車で出て行ったママにしゃくり上げながら「ごめんなさい」って電話を掛けた。必死だったんだ親と子でひととひととで幸せになりたくて傷つけ合った。あの夜、ママは自分がいないほうがわたしが幸せになれると思っていたことを分かってる。子供を育てる、社会に出る、その能力があるのかどうか以前に、わたしがずっと思ってきた今の世の中が定義する大人とは、偏った視点で他者を裁断する冷酷な自分に慣れ親しんでしまったひとのことだった。箸の持ち方が、学歴が、あなたの両親が、あなたの口癖が。そんなくだらない情報で誰かの人格や将来をジャッジするのがわたしにとっての大人だった。「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。」この言葉の本当の意味は、夢や希望や純粋さを失くしてしまうことなんかじゃなくて自分の痛みに鈍くなり誰かのそれに唾を吐きかけていても平気でいられることなんだと思ってきた。だから、わたしはわたし自身に、わたしの心で、そうじゃないことを証明したいと思ってきた。わたしは、そうなれているだろうか。いまの彼にある記憶や思い出や、孤独な夜に何度も彼を包み込んできたすいとあまいのその一切を、わたしは否定せずにすばらしいものだと、いとおしいものだと言いきってあげることができるだろうか。そのひとの傷だらけの心に、わたしのこの手は傷ひとつ付けることなくふれ、抱きしめてあげることができるだろうか。親が親らしくなれないことや、子どもがそんな親に傷つけられてしまうこと、その関係を一概に間違っていると言い切ることが、わたしにはできない。誰かの言葉ではどうにもできないほどわたしたちの心には深い傷と、それと同じくらい深い愛情が刻まれているからできない。傷つけられるよりは、傷つかないほうがいい。寒くて凍えるよりは、温かく眠れるほうがいい。苦しんで悩んでようやく愛することをおぼえるよりは、苦しまず悩まずはじめから愛されることの約束があるほうが、いいのかもしれない。それでもわたしにはわたしの人生があった。誰かの言葉では語ることのできないわたしの話があった。映画は時にひとをすくう。何度も巻き戻され何度も停止され、涙に濡れたゆびで、何度でも再生される。それが、「いい」や「正しい」だけで構成されてるはずのない本物の誰かの話だからだ。今日みたいな日は、なにもいえなくなることが、応えでいいのだと思う。ただ、救いたいひとが居て、掬われるひとが居る、ふたりは手をとりあって、そんなワルツを踊ることができる、いつかあなたをすくうことができるならわたしは自分を、語り続けるべきなのだと思いました。
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