本作のツイッター公式アカウントが「この映画はそれぞれの愛に立ちはだかる壁を乗り越えることの強さを描いている」との弁をツリー形式で釈明した。結びには「そのテーマをエンターテインメントな作風で描いているため、一部の方に誤解や混乱を招いた事をお詫び申し上げます」と書かれていた。署名は『バイバイ、ヴァンプ』製作委員会となっている。
まず、ぼくは今劇場公開されている映画作品の「テーマ」や「メッセージ」を、あまつさえ作り手自らが、およそ600字ほどで説明できてしまっている時点で、本作が「映画」として機能していないことが露呈されていると指摘する。
これが極論であり暴論だと受け取られることを承知で力強く述べてしまうけれど、ぼくにとって映画は、言葉で説明可能なのであれば、わざわざ「映画」なんかにする必要は、一切ないと考えている。ブログで書け、とすら思う。
それを歴然と示すのは、この製作委員会の弁明に他ならない。作品が内包する「テーマ」や「メッセージ」は、いとも容易く「文章」として帰結して、意味はたった一つの「答え」として制約される。真に映画なんていういい加減なものを、それでも信じてしまう人々というのは、決して、このような駄文を提示しない。もしくは、提示「できない」。
言葉による提示、が可能なのであれば、それを大量の資金と労働時間を費やして、映像という便法によって、映画として発表する必要はない。そのことを作り手自身があまりにも無自覚に表明してしまっていることは、頭の悪い愚行としか言えないだろう。あるいは、意味の解釈を奪うという機能をツイートに備えた時点で、映画はおろか、観客すら信頼していないあらわれでもある。そして相変わらず、プロデューサー陣にSNSやインターネットのリテラシーが皆無であることは、爽快なまでに微笑ましい。使えないオモチャで必死に遊ぼうとする姿が、ぼくにとっては滑稽でしかない。なあ、あんたらスマートフォンなんて見ている場合か?
つまるところ、本作の作り手が、少なくともミジンコのような映画ファンであるぼくよりも、「映画」を好きでもないし、「映画」を撮ろうともしていないし、「観客」を歓迎していない、ただの馬鹿な集団であることは、先のツイートによって、くっきりと判明した。
「謝罪」という点で捉えてみても、謝辞を述べる以前に、「愛についての公序良俗に反しない"正しい"映画を作ったつもりなのです」という、「テーマ」と「メッセージ」を免罪符にする言い訳だけが、だらだらと羅列されている羞恥心の欠落ぶりに噴飯してしまう。が、最も重要視しなくてはならないのは、なぜ、そもそも「作った映画」に対する「謝罪」を、作った側がする必要があるのか、ということだ。
決して作り手の肩を持つわけでも味方するわけでもないのだけれど、よくまあ簡単に謝れるな、と思う。自らが映画として、表現として完成させたものを「謝る」ということは、「作ったものに悪い表現が、謝るべき表現がありました、不快にさせてしまってごめんなさい」ということを「認めた」ということになる。
なぜ、認められるのだろうか。悪い表現が、謝るべき表現が、人を不快にする表現が「ある」ことに対して、なぜ「間違い」と自称してしまうのだろうか。犯罪も法律違反もしていなければ、その表現込みで彼らなりの「エンターテインメント」なのであれば、それを「謝ってしまう」ことは、表現者の一人として如何なる心情なのだろうか。ぼくはこの製作陣たちの行動が、誠に恥ずかしい。恥、だと感じる。
芸術は、間違っていることを表現することができる。よしんば、間違っていることを表現したことで、コントロバーシャルな状況を招くことの、何をそんなに恐れているのか。そんなに正しさは尊いものなのか。正しさに屈することになんの恥じらいもないのか。良くも悪くも、人に「影響」を与えなければ表現ではないはずだ。自分たちの映画がどんなに否定されようとも、自分たちだけは「その映画」を信じ切ることは出来なかったのか。信じ切るとは、表現した行為を謝ることでは絶対にない。なにが「お詫び申し上げます」だ。なにが「不快な思いを抱かせる表現が含まれているかもしれませんが」だ。言い訳したり謝るのなら、はじめから撮るんじゃねえよ。馬鹿が。
と、前置きが長くなってしまったけれど、観た。
観た上で、『バイバイ、ヴァンプ』は紛う事なき阿保な失敗作である。端的に、一瞬たりとも面白さが巻き起こらない、おそろしさすら抱かないつまらなさだけが映画館の暗闇に漂っていた。より本質的な疑問を言ってしまえば、自分はなぜ「映画のフリさえしていない無意味な光の明滅」を、暗闇で目の当たりにしているのかと、己の選択を後悔した。このクソに対して、ぼくが「観客」になることを選んでしまった時点で、間違いを犯してしまったことは明白である。その行為にかすかな意味を付帯するならば、こんなつまらない時間を、あなたは経験するべきではない、と、ここに書いてしまうことぐらいしかない。
本作は、まずヴァンパイア映画としてあまりにも齟齬が多く、捉え方によっては「ゾンビ映画」のコード設定が定められてしまっているように見える。噛まれると「まるで感染症のように」同性愛者になってしまうという設定は(書いているだけで呆れてくる設定だけれど)、たとえ他の吸血鬼映画でも血や唾液による繁殖は描かれてきてはいるが、本作には徹底して「吸血鬼である必要性」が無く、絶えずプロットホールとして存在している。終盤において、この吸血鬼設定は、シナリオ上のいわゆる「過去の葛藤」を機能させるための装置であったことが判明するが、微塵も説得力の無い、凡庸すぎて何らサプライズも無い真相を前に、肩を落とす。ヴァンパイア特有のルール設定が、まず非キリスト教圏の日本では成立しにくい(現に成立していない)のと、特殊メイクや衣装スタイリングなどのヴィジュアル面において、眼の色が変化したり牙が出ていたりはするものの、それが記号でしかなく、いつまで経ってもヴァンパイアとしてのアクションを見せつけない。そもそも、吸血鬼と人間/感染者は区分されており、人間は「なんかいつもと様子がちがう」人間としてしか描かれない。その違和感を同性愛者として描写してしまうのはあまりの浅はかさであるし、加えて、該当する年頃の青少年たちであれば、別にこれくらいイチャコラもするし性欲はあるじゃんかよ、健全じゃんかよ、と感じるので、同性愛者の性欲が異様なものとして捉えられている世界観には異論を唱えたい。
噛まれた者は急激に喉が渇いて、血に興味を示して赤い飲み物を飲むようになり(笑)、ところが彼らが吸血鬼として変貌していく様子はまるで無く、何より心や精神は終始変わらずバカな青少年たちなので、吸血鬼であることの葛藤が全く描かれない。同性愛をテーマ設定するために、まずは吸血鬼という存在があまりにも粗末に扱われている様子は、ホラー映画が好きなぼくのファンダメンタルな感情を抜きにしても、作った奴らをブン殴りたい衝動に襲われた。
劇中の同性愛描写、または異性愛描写の各々が、学芸会以下の粗末さと、前時代的なステレオタイプな演出でのみ構築されており、すなわち、構築されていない。「演出」や「芝居」なんて一瞬も映らない。ゲイマリッジ、レズビアン同士の接吻それ自体を、コメディリリーフとして異質に捉えたカメラワーク、リアクション、劇伴の数々には、それが無自覚であれ、または攻撃性に満ちた悪意が無かったにせよ、観客の集中力を奪い、虚無感を与える。こと此処に於いて、まず「接吻」それ自体を美しく撮れない監督も撮影監督も、いち早く退場していただきたいと強く願望するに至る。製作陣は「愛に立ちはだかる壁を乗り越えてほしい」とほざいていたけれど、アンタらが愛も恋も信じていないし美しいとすら思っていないこと、それだけはスクリーンから鮮明に伝わってきた。発話される台詞の内容は言うまでもなく、その説明口調な病理もどうしようもなく、発話される音の心地悪さには、しばらく耳を塞ごうかと思った。下品な唇のヨリや壊れたテレビ画面のような照明・カラーグレーディングにも、思わず苦笑した。先に述べたクライマックスに明かされるプロットも、サプライズとしても興味を抱かないし、差別のメタファーにしても弱気で、吸血鬼映画ナメんなよと結構な勢いで腹が立った。湯気と湿気が支配する浴場にカメラという機材を置くことの意識も、まるで無かった。花火とは縦の運動であって、実のところ横幅が長い映画と花火の相性は良好なものだとは決していえないのだけれど、馬鹿のひとつ覚えで撮られた花火のショットは、映画への侮辱のようだった。
そう、まず以って本作は、予想されたLGBTQの人々への侮辱、冒涜、差別である以前に、「映画」への侮辱、冒涜、差別である。このことは、たとえぼくのような単なる映画ファンの人間であろうとも、豪語しておかなくてはならない。そういう意味で、本作には嫌悪感も憎悪も抱いてはいない。殺意だけはある。映画ファンとしては、踏み潰してしまいたい。観なかったことにしたい。時間を取り戻したい。タイムトラベルしたい。とにかく、徹底して批判するスタンスは崩れない。
しかし、ぼくはつまらなさに憤怒しつつ、この映画の上映を阻止しようと動くことはできない。したがって、かの署名運動にも署名はしていない。仮にも、この映画はクソつまらないので上映中止にしましょう、という題目の署名運動だったとしても、決して署名はしない。なぜか。該当する表現にあらゆる問題点があろうとも、観客には、それを否定・批判・拒否する権利は付加されているが、それを抹消する権利は恐らく無いからである。
「こんな映画を公開するな」と、公開以降においても本作は、上映中止を求める署名運動が今尚続いている(ぼくはそのページを閲覧していないので、何人が署名しているのか、その数は把握していない)。それは、本作の内容である「ヴァンプに噛まれると同性愛者になってしまう」という設定自体が、同性愛者への偏見であり差別を助長する、あまりにも現代の時代観に相応しくない、LGBTQの人々を故意に傷付け兼ねない、非倫理的なものだと叫ばれている。
シュプレヒコール自体に説教を垂れるつもりは微塵もない。むしろ、声明は自由で、様々あってよいとぼくは考えている。だから署名運動に関しては、主催する側も署名する側も、各々の判断で意思を主張し続けてもらって構わない。
とは言え、本件を取り巻く状況において、ぼくが疑問に感じるのは、公開中止を求める署名運動は、果たして本編それ自体を鑑賞した上での要求なのだろうか、という点である。
だから前提として、本作を鑑賞した上で「けしからん!」と石を投げる民に対して、ばくの感情は無だ。けしからんと感じて批判する、その反応それ自体に対しては、味方にも敵にもならない。人それぞれ、でしかないからだ。そして何より、それは「感想」としての効果を持っているので、その多様性は認め続けたい。ただし、後述するが、ここに「抹消」の欲求は含まれていない。石を投げることと消すことは、全く異なる行為である。
よしんば、観ていないけれど公開中止を要求する人々の中には「文句は観てから言え、の論に当てはめてしまうと、本作はまず鑑賞したことによって精神的に傷付けられる人々が発生する可能性がある、だから観ること自体を条件にする必要は無い」という意見をお持ちの方もいらっしゃるだろう。正直に言ってしまうと、ごもっとも、仰るとおりだとぼくだって感じる。何より、鑑賞してしまったぼく自身、殺意を抱くくらいにはつまらなかったので、しっかりと被害は被った。ぼくは異性愛者なので、どんな論旨展開をしようとも、真にLGBTQの人々の心境にはたどり着けない。そのことも、この文章を記す以前に、重々承知している。
その上で、だ。表現を信じ、愉しみ、愛する末端の人間として、強引にも論を展開させてしまう。ご容赦いただきたい。
すなわち、「観てない・観なくともけしからん・誰かを傷付けるはず・排除するべき」という思考の転がり方は(今コレを読みながらぼくに殺意を抱いている方は、どうか落ち着いて耳を傾けてほしいのだけれど)、あまりにも短絡的で、危ういのではないだろうか。加えて、「観た・けしからん・傷付いた・排除するべき」という怒りも、慎重に考える必要があるはずだ。
第一に、下手糞で白痴で弱小な本作は、LGBTQの人々を容赦なく傷付けるほどの殺傷力は「持っていない」。無差別的なテロリズムとしての破壊力も皆無であり、交戦するには果てしなく「危険」から遠のいた存在であることは、空虚な本編を観るだに明確である。敵と定められた相手は、平和的というよりも、単なる馬鹿の連中でしかない。たとえそれらが、自発的に差別に向かっていても、もしくは無自覚に差別的な行為をはたらいていたとしても、その影響力は「無」に等しい。大切なことなので繰り返す。この映画の「影響力」は、全くもって「皆無」に等しいのだ。影響を及ぼす「可能性」すら、予告編やヴィジュアルを目撃した際に、私見にはなってしまうが、「無い」と判断した。価値の有無ではない。それほどに「力」を持っていない作品であることは此処に断言する。
論が飛躍してしまうけれど、勝手に相手を敵や危険分子と見なし、次々と爆弾を投下して、相手の領土が焼け野原になるまで満足感も達成感も得られないという心理状況は、直喩としてアメリカ的である。アメリカの大義名分は「アメリカを守る」という自衛権であるが、いつの世も、マッチョイズムの犠牲になるのは身内なのだ。誰かを幸せにするために始められた戦争も喧嘩も、未だかつて無い。『バイバイ、ヴァンプ』は、LGBTQの人々を抹殺するような「危険性」や「可能性」すら、イラクの大量破壊兵器の如く「無い」のに、なぜ単に「排除」するべきだと猪突猛進が可能なのか。ぼくは馬鹿なので、全く理解ができない。そんなに容易く、可能性を判断することなんて、絶対にできない。あるいは、絶対にしたくない。
人を傷付ける表現である以前に、表現には、最低最悪なものだってあるのだ、ということは決して失念してはならない。加えて、隠蔽してもならない。万人が認める表現なんて絶対に存在しない。『サウンド・オブ・ミュージック』を観てゲロを吐く人もいれば、ナチスのレイプ拷問映画を観て射精する人もいるのだ。万人に共有できなくても、政治的に間違っていても、公序良俗に反していても、とにかく「ある」のだ。それらは、誰かが一生懸命に考えて表現したものであって、それを見たがる人もいて成り立っている。誰かが考えて作ったものを、悪趣味や倫理観を理由に抹消しようとすることこそ、真に独裁的であり排他的だ。そうした現状を眺めてみれば、オーウェンの『1984』の世界は、もはやフィクションでなくなっている。個々の作品の良し悪しに、全方位的な「正しさ」を持ち込むのは見当違いなのではないだろうか。その上で、先の製作陣たちは「この映画は悪質なものです。でもあってもいいじゃん!」くらいは言えなかったものか。まあ、アイツらに言えるわけないか。
『バイバイ、ヴァンプ』は、「映画」として途方もなくクソつまらない作品であって、それ以上でも以下でもない。加えて、本作が「LGBTQを傷付ける不快な映画」として、全く機能していない点も改めて特筆する。あらゆる国籍、セクシャリティへの差別を持たない筆者として宣言するが「LGBTQの人々は、こんなクソみたいな表現くらいではかすり傷すらつかない」。そのディメンションまで、本作のテロリズムは到達していない。(独り言を書いてしまおう。製作陣、ざまあみろだ)
あらゆる問題は固定化されてはならない。我々は、複眼的な視点を持ち続けることこそが重要なのではないか。レーザー光線のようにモノを焼き切るような目線とは、良い問題の見方ではない。かえって答えを狭めてしまうからだ。好きと嫌いで世界を見てしまうと、世界は「正しい」と「間違い」で分けられてしまう。「敵」と「味方」に割れてしまう。
だから、今はとりあえず「決め付けない」ことを大切にするべきなのではないだろうか。敵にも味方にも、必ずそのうち「変化」がやって来るはずだ。他者にいつも、一つの「正しい」意見しか言わない人は、既に「間違っている」。なぜなら、その人に対して、これは正しくないという、反対意見の正しい人もいるから。答えが一つしかないというのは、その時点で、もう「間違っている」のではないか。多様性を認めるとは、果たしてそのような思考によって生まれるのではないだろうか。
作中における倫理観それ自体への拒絶反応や嫌悪感は、恐らく人それぞれ抱く「可能性」もあるはずである。特にLGBTQの人々が、本作を観て、あるいは本作が上映されている状況に対して、単にイライラすること、不安になることは何ら不思議なことではない。しかし、あなた方が「こんなクソ」に屈することも傷を受けることも無いことを、ぼくは観た者として約束したい。まず、観る必要はない。観る必要はないけれど、作品を消滅させることを選ぶのは、どうか慎重になっていただきたい。先に述べた通り、「ある」ことを否定してはならない。「ある」のは仕方がないし、「あったっていい」のだ。そのこと自体を否定したり抹消しようとする感情は、LGBTQの人々が最も闘うべき感情であるはずだ。あなた方を差別するものたちを、あなた方が差別する必要はない。敵の敵になってはならない。それはもう「敵」と同化してしまっていることに他ならない。本作はあなた方の「敵」ですらない。戦闘に突入する前に、あなた方にとっての「味方」に目を向けてみてほしい。あなた方の「味方」である表現や芸術は、そして人間は、ほんの数年前よりも確実に増え続けている。あなた方は、そんな「味方」の力も得て、少しだけでも「強く」なっているはずだ。『バイバイ、ヴァンプ』なんかにバイバイと手を振っている暇なんてない(笑) あんな映画がヒットするはずもなく、実際にヒットしてはいない。映画は興行なので、奴らは勝手に、自滅していくだけだ。そして退場するか、より良い面白い映画を作ろうとするか、それだけだ。あなた方は、奴らによって絶対に消えないし、自滅しないし、傷を受けない。こんなものに負けるはずがない。比べるまでもなく、あなた方は強くたくましく、そして豊かだ。敵を探して抹消することは、あなた方をも、あなた方の「味方」をも傷付けてしまう。そんな光景を、ぼくは、俺は、絶対見たくないね。知った口で言ってしまうことを許してほしい。けれども、けれどもさ、のんびり行こうじゃないか。のんびりと。大丈夫だから。俺は、キミたちが『バイバイ、ヴァンプ』なんかの10兆倍面白くて、楽しくて、強い存在だって知ってるよ。もうこの映画の話はやめようぜ。つまんないじゃん。だからさ、そうだな、マスクのワゴン売りに人々が殺到する様が映画『ゾンビ』みたいだったんでしょ? 新宿の? やっばいよねー。もうウイルスに感染してるみたいだよな(笑) その話さ、もうちょっと詳しく聞かせてよ。キミの話を聞くために、観に行く予定だった映画をキャンセルしたからさ。なんの映画? バイバイなんちゃらとかいう、つまんなそうな映画だったよ。映画なんかどうでもいいよ。たぶんその映画よりも、キミの話の方が、絶対に面白いからさ。