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ドライブ・マイ・カーのmingoのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.9
震え上がる。カンヌの星取表をタイムラインで見ていたがそこまで圧倒的に差がつくのかほんとかよ…て半信半疑だったけど観てわかった、段違い。
究極かつ普遍のスクラップアンドビルド。2000年代以降に作られた作品で一番魂を揺さぶられたと言っても過言では無く、濱口特有のモチーフ演劇と生きづらさや障がいを抱える人々(現代人)とが幾重にも多面的かつ重層的に絡まり合い(例えば劇に関係のないみさきと戯曲内のユナが演じるソーニャのリンク)、クライマックスの劇中劇における「台詞の無い身振り手振り(顔の表情から筋肉や骨格の動きまでを駆使した身体的表現)」で没入している鑑賞者はすべてを解き放たれる…涙腺決壊!!!(こんなに涙って出るんだネ!)つまり西島秀俊演じるワーニャ叔父さんの苦悩をソーニャが包み込むような優しさで救済するラストは3時間の紡いできた物語の結集であり、奇跡とは真逆、演劇によって悩み考え抜きドライブしていく人間の生きる強さを遺憾なく感じる。と同時に儚さも痛感、傑作という言葉さえ畏れ多く震災・コロナ禍で行き場を失った人類のある種の結論を3時間ごときで描き切る濱口竜介は歴代の邦画監督でも群を抜いて凄まじい。

また四宮秀俊のキャメラと濱口竜介の脚本を特筆したい、序盤音が紹介したい人がいると高槻役の岡田将生を登場させる場面で、3人をフレーム内に収めながら鏡に映り込んだ画面左の岡田将生は霧島の方を向いており、すでに初カットから高槻の想いが暗示されており、些細な違和感を盛り込むカメラの巧さが際立つ。さらに感情を声に乗せない家福が不意に言う「お互い深く愛し合っているから」という台詞が劇中劇の「本読み」によって、鑑賞者に次第に浸透しており、実はそうではなかった妻の(物語の続きを聞いていた高槻の)語りでの発露は演じられなかったワーニャそのものであり、家福が気づきを感じられる人間で心底安堵した。特に脚本として巧みだったのは音の浮気を目撃し何食わぬ顔でやり過ごそうとしてた家福の人間性。そういう人だと鑑賞者に思わせる西島の演技(と脚本)はこの映画に欠かせない核である。「音は別の男とも寝ていた。それも1人じゃない」と真意か定かではない台詞をはくが、読み取ろうとする鑑賞者を逆手に取り解釈を委ねる、そこにただ1人嘘を見破れる三浦という存在が介入し、言葉を誠実に反芻すればするほど危うさを抱える矛盾を内包し、向き合った相手をみすぎるあまり、「向き合うべきは自分なこと」に辿り着くまでの道程の複雑さと愉しさと人間らしさ、イカれてる(褒めてる)。これはあまりにも「気づき」として突き刺さらない人は居ないのではないだろうか。

クーリンチェのパンフの寄稿文で濱口竜介の人となり、ないしはクリエイティブの精神に感嘆したのを思い出したが、ジャングレミヨンのクローズアップとカットバックを用いて「寝ても覚めても」で商業デビューを果たした彼が古典映画の素晴らしさを超え「親密さ」で提示した必然(「パッション」の偶然性と不確かさ)を「物語」におさめる懐の広さと豊かさを「商業」で削ぎ落とすことなく表現。バランス感覚、神。正直言葉で綴るのが憚れるほどのホンの出来で、言葉、身体的表現、声、音、土地、景色、移動ありとあらゆる人間が生きる上で欠かせない要素のパラメータが3.4なのだがそれぞれが組み合わさることで全部マックス5へと変化する。涙腺決壊のラストだけでなくその前の、傷ついた(西島と三浦の)二つの魂の浄化の最終地点として北海道に向けて赤いサーブを走らせる動機(前述)・過程・結論も素晴らしかった。雪の上で立ち尽くし抱き合う男+女(恋愛感情が無いのがポイント)の決意から前述のラストへ。逃げ出したいすがりつきたい「逃げ」の手段だったタバコが、最後の赤いサーブに乗るのは清々しい顔のみさきとウルトラお目目くりくりでハッハッ言うワンちゃんになっててわろた。航空機メーカーが作った車なので飛行機が飛び立つようなワクワクさで物語が締められているのも良い。ドライブマイカー。

何年も想いを引きずっている身としては当分この映画のことを思い出したくない、あまりに泣けてくるから。ソーニャの「仕方がないの。生きていくほかないの。」だけが自身に木霊する。-0.1点は映画の中の西島と三浦のそれぞれの行く先に希望を込めて。
映画史に残る伝説級の傑作。
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