みそらしど

ドライブ・マイ・カーのみそらしどのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

「僕は、正しく傷つくべきだった」

このセリフが出てくると聞いて、その意味や背景をしりたくて鑑賞。

正直自分で観ただけでは整理しきれない部分が多く、鑑賞後もやもやしていたので、YouTubeでおまけの夜さんの動画を視聴して助けてもらった。

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↑最初の台詞の意味は、「正しく傷つき、現実から目を逸らさずに向き合っていたら結果は変わっていたのではないか。」ということだったと思う。

家福さんも、みさきさんも、妻や母親を「自分が殺したんだ」という後ろめたさを持っていた。

みさきさんは、自分へ辛くあたった母親への苦しい感情と、その母の中にいた親友(サキ)への愛情を持っていて、恐らく、サキも母の一部であることから母親を「諦める」ことができずに子供時代から過ごしていたのではないだろうか。しかし、雪崩で母が埋まったとき、母親への想い(解放されたいとか、もう辛い目に遭いたくないとか?)と、サキへの想い(唯一の親友、母の中にある愛しさの部分を失いたくない)が葛藤し、前者が勝った(あるいは、後者ではみさきさんの体を動かせるエネルギーには足らなかった)ことで、救助を試みなかった。
自分の選択で母から別れる結果とになったが、事故でもあったためきっと誰もそれを責めず、自分だけが自分を責めて生きてきたんだと思う。母親を殺したことへ負い目を感じながらも、母親が唯一教えてくれた運転で生きていくことは、彼女にとって支えであり、呪いでもあったような気がする。

家福さんは、妻・音に浮気をされていた。しかし、音がセックスのあとに語る物語を自分が翌朝もう一度妻へ話して聞かせると言う2人で物語を紡ぐ行為や、その他の共に過ごしてきた時間が、互いにとって互いが唯一の存在であると思わせ、音を愛している、音に愛されていると彼に思わせていたのだろう。だからこそ、音を失うことが恐ろしく、音の不貞行為により自分が受けた傷よりも、表面上の2人が穏やかに続いていく(ように見える)ことを選んでいた。
誰よりも失いたくたくなかった音を、自分が帰宅時間を遅らせたことで亡くしてしまったという皮肉…。
音が亡くなったあとも、家福さんは彼女の声で吹き込まれたテープを聞き、その演目の上演に向け準備を進める。音が死んだいま、彼にとって彼女と繋がっていられる唯一の行為。つまり、チェーホフの本を演ることが、家福さんにとっての支えであり、自分の罪から逃れられない呪いでもあったのではないか。

2人とも、自分を支える存在を追えば追うほど、自分がその存在を殺したという罪を自身に突きつける。
ただみさきさんは、家福さんと出会うまでにある程度折り合いをつけ、働いて生きていくしかないということを自分なりに受けいれているような印象もあった。

また、「私が殺した」というのは、もしかすると音も抱えていた想いではないかとおもったりもする。「我が子を私が殺した。」という意味で。
彼女の場合は、脚本を書く(産む)ことで自分の罪によって支えられながら呪われていたかもしれない。

家福さんと音の子供が亡くなったとき、その時から彼らは「正しく傷ついて」いなかった可能性もあると思う。悲しみや悔しさを受け入れたフリをして、前に進むフリをしたのではないだろうか。
そこから音の歯車が狂い、音を追う家福さんの歯車も狂った…とか。

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それから、「相手の言葉を理解しているつもりで出来ていない。相手を理解するには自分自身を見つめるしかない。」(そんなニュアンス)というメッセージも印象に残った。

自分のことを振り返ってみても、相手の話を聞いているフリ(つもり)で、実は自分が話したいことを話しているだけなのでは…みたいなことがあるなとドキッとした。
相手の言葉を、自分が話すためのきっかけにしてはいけないなと思う。

(映画や本などに触れる時も、「こうやって受け取るべきだ」「このパターンか」みたいに、自分の中で型を持って咀嚼してしまうと、それは本当に作品を理解しようとしていることにはならないのだろうね…。)

ただ「相手を理解するには自分自身を見つめるしかない」というのはまだ咀嚼しきれていない。相手の言葉を自分が話すきっかけにしないために、自分の本当の気持ちを理解しておく必要があるということ………?自分が話すための合図として相手の言葉を待たず、相手の言葉を相手の気持ちとしてしっかり受け取るために?

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チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を読んだら、もう少し見えてくるものがあるのかな、と思ったりして少し気になる。

あと今更だけど、家福さんとみさきさんは家福「さん」、みさき「さん」なのに、音だけ「音」って書いてる…。特に意味はないのでスルーしてください…。