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スペンサー ダイアナの決意のumisodachiのレビュー・感想・評価

3.9


1991年12月のクリスマス。週末をサンドリンガムハウスで過ごすダイアナ妃を描いた作品。伝記映画ではなく、彼女の人生のあれこれをギュッと凝縮したような象徴的な3日間を創り出している。

田舎道をひとりで運転しているダイアナ妃。どうやら道に迷ったらしい彼女は、"Where the fuck am I?"と独り言ちる。サンドリガムはダイアナの生家があった土地であり、彼女のルーツともいえる場所。そこで道に迷うということ自体が、ダイアナが置かれている状況を表している。仕方なくダイアナは路傍にあるカフェテリアに立ち寄り、驚く人々の前で大げさに上品らしく振舞いながら「ここはどちらかしら?道に迷ってしまって……」と困り顔をして見せる。この一連のシークエンスだけで、ダイアナが本当はどんな人物で、世間からはどんな扱いを受けていて、この時点でどのような状況にあるのかを示唆している。見事な滑り出しだと感じた。

もちろんダイアナ以外のロイヤルメンバーは一人ひとり別々のハイヤーに乗って恭しくサンドリンガムハウス(エリザベス女王の私邸)に到着していく。道に迷ったダイアナは大遅刻するわけだが、そもそも一人で車を運転して向かうことが非常識。到着した彼女と邸宅の執事?の間にはいきなり緊張が生まれ、彼女が敵地へと侵入したことが示される。「3日我慢すればいい」ダイアナが臨む戦いはあまりにシビアで、あまりに苦しいものだった。

ちなみに、スペンサーはダイアナ妃の本来の苗字。このことは本作で大きな意味を持っている。私も結婚して違う姓になったが、旧姓には思い入れがある。息子とミュージカルを観に行ったときに楽屋で私の苗字が呼ばれた際、息子は驚いた。そして、その様子を見た役者が「ママの本当の名前は〇〇なんだよ」と言った瞬間から、息子は私という個人を表現するときには旧姓を使うようになった。息子が私の旧姓を口にするたび、不思議なことに私は本当の私を取り戻す気がするのだ。ダイアナにとっての「スペンサー」も、きっと大切な響きを持っていたに違いない。

王室からは浮いた存在であり、夫は不倫中。孤独に苛まれたダイアナは過食症とパラノイアに苦しんでいる。着る服も、食べるものも、カーテンを開けるか閉めるかさえ管理され、常に監視の下にあるダイアナの精神状態はどんどん追い込まれていく。本作と似た趣がある作品を上げるならば『SWALLOW』だろう。張り詰めた空気と苦しみの中で自分を見失いそうになりながら、現実と妄想の境目すら曖昧になっていくダイアナ妃を演じるクリスティン・スチュワートは信じがたいほど美しく、信じがたいほど気の毒だ。

サンドリンガムハウスでダイアナは自分とアン・ブーリンを重ねていく。アン・ブーリンの影はどんどん濃くなり、遂には「自分も殺されるのではないか」という恐怖まで覚えていくダイアナ。ウィリアムに対してカミラを「ジェーン・シーモア」と呼んでしまうほどに疲弊していく姿は痛々しい。

反対に、子どもたちと一緒にいるときの生き生きとした表情も印象的だ。でも、それは子どもたちとダイアナだけの聖域。彼らがどんなに寒いと訴えても誰も手を差し伸べてはくれないし、ダイアナがいくら子どもたちに狩猟はさせないでと請うても、その願いは受け入れられない。そこにいることは強要するのに、すぐそばにいるダイアナを見捨てる人々。かつてダイアナ妃が長きにわたって感じていただろう孤独を、私たちはクリスティン・スチュワートの姿を通して追体験することになる。

本作にはメイドの役としてサリー・ホーキンスが出演している。ダイアナが心を許せる数少ない相手として登場する彼女の登場時間は非常に短い。超一流女優がなぜこの役を?と思うほどの脇役だが、本作における彼女の存在はとても大きい。日本公開はまだ先なので具体的には語らないが、私は終盤の展開が大好きだった。

美しい映像、美しい衣裳、美しい建物、緻密に配置された小道具。ほぼ密室劇ともいえる本作は非常に演劇的で抽象的。ダイアナの身に起きたあれこれを期待して観に行ったらきっとガッカリするだろう。観念的に精神そのものを描いた映画だから。でも、この世界に確かに存在した1人のスペンサーに寄り添い、本当の彼女を発見してあげようと心を砕いた傑作だと私は感じた。自分自身を見失ってしまった彼女をあなたもスクリーンで見つけて、そっと手を差し伸べてあげてほしい。

なお、スペンサーとは誰の名前か、ダイアナ妃の身に何が起きたか、サンドリンガムがどんな場所か、アン・ブーリンとは何者か、など基本的な知識がないとわからないことが多いと思うので、注意されたし。






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