ミヤザキタケル

ボーはおそれているのミヤザキタケルのネタバレレビュー・内容・結末

ボーはおそれている(2023年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

※これは『ボーはおそれている』を鑑賞した人向けのネタバレを交えたもになっているので、作品未見の方は読むのをお控えください。そして、「よく分からなかった」と戸惑ってしまっている人のために、一つの解釈や可能性を示れば幸いです。無論、ここに書いてあることが正解というわけではないので悪しからず。

終盤まで自分が一体何を見ているのか、何を見せられているのか、手探りな状態が長らく続いていた(しかし、不思議とコレが苦ではない)。が、終盤に入ったことで、点と点が線になり始めていき、物語を紐解くヒントが開示されていたように思う。

「愛憎」という表現をよく目にする。「可愛さ余って憎さ百倍」なんていう言葉もあり、それはまるで表裏一体のよう。ただ、愛から憎しみに至ることはあっても、憎しみから愛へ至ることは中々ない。そう、一度愛を抱いてしまったが最後、行き着く果ては憎しみ。愛のまま留まり続けることができれば良いが、一度でもその領域からはみ出してしまえば、そこにはもう憎しみしか残らないのかもしれない。また、愛が憎しみに至るパターンとは異なり、愛の喪失によって苦しむことになるパターンもある。どちらにしろ、愛を抱いてしまうからこそ至る道。本作で目にできるすべての人間模様の根底には、これらのことが扱われていたのではないだろうか。

ボーは心臓が悪い。父親はSEXをして死んだ。その遺伝があるから心臓に負担のかかるSEXはできないという。けれど、実際にボーは普通にSEXができていた。ここで一つの疑問が芽生えてくる。心臓の病気など元々なかったのではないか。つまり、息子の愛が他の女やその子供へと注がれないよう、母親が「心臓が悪い」ということをでっち上げ、息子の愛を独占するべく父親も排除していた可能性がある。

それら終盤で触れられる疑惑や愛憎の可能性を目の当たりにしてこそ、それまで彼が辿ってきた道筋が活きてくる。さながらスラム街にも見える場所で生活を送っていたボー。まともに他者と関わることもなく、むしろ他者に怯えながら生きている。それ即ち、愛とは無縁の世界。そんな彼が足を踏み入れることになるのは、自らを労り丁重に看病してくれる夫婦の家。愛する息子が戦死しており、その苦しみを紛らわせるためか、心身を病んでしまった息子の戦友もその家で看病している。しかし、息子の代わりになどなるはずもなく、ボーが連れて来られたのもまた息子の代わりを探し求めてのこと。そして、(息子と同じ)男ではない娘には目もくれず、親の愛を欲する娘の感情は憎しみへと至ってしまい、その憎悪の矛先はボーへと向けられる。

その後、彼がたどり着くのは森で芝居をする旅の一行。妊娠している女性に助けられるのだが、彼女の存在こそが愛であり、まだ憎しみとは無縁の愛そのもの。そこで彼は芝居を見る。そこに自らの姿が重なり始めていくのだが、女性を愛し、3人の息子に恵まれ、幸せに暮らしていたものの、突然の天災で生き別れ。愛を知ってしまったからこそ生じる苦しみに苛まれる人間の人生、その果てまでを擬似体験する。それはボーにもあり得た未来。だが、心臓へ負担のかかるSEXを禁じられていたからこそ手に入れられない(と思い込んでいた)もの。

仕向けられていたものも含め、あらゆる愛(憎)の在り方に触れた上で、ボーは母親と対峙する。これは、息子の愛を独占したかったが故に憎しみ合うことになってしまった親子の話。僕の目にはそんな風に映りましたが、あなたの目にはどのように映るでしょう。僅かでも作品を紐解く助けになれば幸いです。

他にも色々要素があり過ぎて、あえてここには書いていないこともありますので、是非もう一度ご覧になって、ご自分の目と心で色々と考えてみてください♪